2011年9月 アーカイブ
2011年9月30日 20時54分47秒 (Fri)
”殺しの番号”
皆さんご存知「ジェームズ・ボンド」が活躍する「スパイ・アクション映画」の、
「DR. NO」1962年(邦題「007は殺しの番号」、「007/ドクター・ノオ」)
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でゲス。
「イアン・フレミング」の長編小説「007シリーズ」の第6作で、映画化としては”第1作目”ですナ。

監督は、「テレンス・ヤング」
出演は、「ショーン・コネリー」、「ジョセフ・ワイズマン」、「ウルスラ・アンドレス」、「ジャック・ロード」、「バーナード・リー」、「ピーター・バートン」、「ロイス・マクスウェル」、「アンソニー・ドーソン」、「ジョン・キッツミラー」等など。
・・・ある昼下り、”英国秘密情報部支局長”が何者かに射殺されたんでゲス。
彼の任務は、ケープカナベラル基地から発射されるロケットの弾道を狂わす電波発信地を突きとめる事だったんですナ。
”ロンドン本部”は事件を重視して、直ちに背後関係追及の為に”007”こと「ジェームズ・ボンド(ショーン・コネリー)」機密員を現地へ派遣したんでゲス。
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任務は”支局長”の足取りを洗う事で、”支局長”は最近魚に興味を抱き連日島っ子の「クオレル」と沖へ出ていたみたいだったんですナ。
んが、”支局長”の魚釣りは見せかけで、実はボーキサイド開発中の中国人「ジュリアス・ノオ(ジョゼフ・ワイズマン)」博士所有のラブ島を探索していた事実が判明して、事態は悪化してしまうんでゲス。

24時間後に”月ロケット”発射の急報に「クオレル」を道案内に立てた「ボンド」は、闇を縫ってラブ島上陸を敢行したんですゼ。
ソノ後、2人はエキゾチックな女性の「ハニー・ライダー(ウルスラ・アンドレス)」に出会ったところで万事休す、火を噴くマシン・ガンに舟はやられて「クオレル」は殺され、「ボンド」と「ハニー」は捕えられてしまいうんでゲス。

研究所に連れ込まれた2人は、「ノオ」博士から事件の全貌を知らされるんだけど、死の宣告を受けた「ボンド」には手も足も出なかったんですナ。
「ボンド」絶体絶命のピンチ!・・・。

当初は、
「THUNDERBOLL」(邦題「007/サンダーボール作戦」)
が、第1作になる筈だったんだけど、著作権に関する訴訟問題から暗礁に乗り上げて、SF色のある第6作の「ドクター・ノオ」が選ばれたとの事でゲス。
結果的に、米ソの”宇宙開発競争”や、偶然にも公開時に起きた”キューバ危機”等から、時事性を帯びた作品となったんですナ。
そうそう、ズ~と長らく観てなかった作品だったので、驚いた事が1つあったんですヨ。
”ソレ”は、初期の”007シリーズ”(「コネリー」が「ボンド」役の間ネ。)での”主要登場人物”(「M」、「Q」、「ミス・マネーペニー」)の内、「M」は「バーナード・リー」、「ミス・マネーペニー」は「ロイス・マクスウェル」だったんだけど、「Q」が大好きな「 デスモンド・リュウリエン」じゃなくって「ピーター・バートン」だったんでゲス。
”コレ”、ショックでしたナ。(「リュウリエン」の「Q」最高!!!なのでネ。)
そうそう、忘れちゃいけないのが、”メインタイトル・デザイン”を 「モーリス・ビンダー」が担当した事と、”音楽担当”が「モンティ・ノーマン」(「ジョン・バリー」はアン・クレジット)って事でゲス。
ジャメイカが舞台になってる作品なので、バックで流れるサウンドもタマランですナ。
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んじゃぁ、コレにて。
では、では。


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「DR. NO」1962年(邦題「007は殺しの番号」、「007/ドクター・ノオ」)
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でゲス。
「イアン・フレミング」の長編小説「007シリーズ」の第6作で、映画化としては”第1作目”ですナ。

監督は、「テレンス・ヤング」
出演は、「ショーン・コネリー」、「ジョセフ・ワイズマン」、「ウルスラ・アンドレス」、「ジャック・ロード」、「バーナード・リー」、「ピーター・バートン」、「ロイス・マクスウェル」、「アンソニー・ドーソン」、「ジョン・キッツミラー」等など。
・・・ある昼下り、”英国秘密情報部支局長”が何者かに射殺されたんでゲス。
彼の任務は、ケープカナベラル基地から発射されるロケットの弾道を狂わす電波発信地を突きとめる事だったんですナ。
”ロンドン本部”は事件を重視して、直ちに背後関係追及の為に”007”こと「ジェームズ・ボンド(ショーン・コネリー)」機密員を現地へ派遣したんでゲス。
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任務は”支局長”の足取りを洗う事で、”支局長”は最近魚に興味を抱き連日島っ子の「クオレル」と沖へ出ていたみたいだったんですナ。
んが、”支局長”の魚釣りは見せかけで、実はボーキサイド開発中の中国人「ジュリアス・ノオ(ジョゼフ・ワイズマン)」博士所有のラブ島を探索していた事実が判明して、事態は悪化してしまうんでゲス。

24時間後に”月ロケット”発射の急報に「クオレル」を道案内に立てた「ボンド」は、闇を縫ってラブ島上陸を敢行したんですゼ。
ソノ後、2人はエキゾチックな女性の「ハニー・ライダー(ウルスラ・アンドレス)」に出会ったところで万事休す、火を噴くマシン・ガンに舟はやられて「クオレル」は殺され、「ボンド」と「ハニー」は捕えられてしまいうんでゲス。

研究所に連れ込まれた2人は、「ノオ」博士から事件の全貌を知らされるんだけど、死の宣告を受けた「ボンド」には手も足も出なかったんですナ。
「ボンド」絶体絶命のピンチ!・・・。

当初は、
「THUNDERBOLL」(邦題「007/サンダーボール作戦」)
が、第1作になる筈だったんだけど、著作権に関する訴訟問題から暗礁に乗り上げて、SF色のある第6作の「ドクター・ノオ」が選ばれたとの事でゲス。
結果的に、米ソの”宇宙開発競争”や、偶然にも公開時に起きた”キューバ危機”等から、時事性を帯びた作品となったんですナ。
そうそう、ズ~と長らく観てなかった作品だったので、驚いた事が1つあったんですヨ。
”ソレ”は、初期の”007シリーズ”(「コネリー」が「ボンド」役の間ネ。)での”主要登場人物”(「M」、「Q」、「ミス・マネーペニー」)の内、「M」は「バーナード・リー」、「ミス・マネーペニー」は「ロイス・マクスウェル」だったんだけど、「Q」が大好きな「 デスモンド・リュウリエン」じゃなくって「ピーター・バートン」だったんでゲス。
”コレ”、ショックでしたナ。(「リュウリエン」の「Q」最高!!!なのでネ。)
そうそう、忘れちゃいけないのが、”メインタイトル・デザイン”を 「モーリス・ビンダー」が担当した事と、”音楽担当”が「モンティ・ノーマン」(「ジョン・バリー」はアン・クレジット)って事でゲス。
ジャメイカが舞台になってる作品なので、バックで流れるサウンドもタマランですナ。
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んじゃぁ、コレにて。
では、では。


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2011年9月27日 20時58分01秒 (Tue)
「CARL PERKINS」
最初の「ロックンロール」サウンドを創り出した元々の、いくつかの音楽の流れの混合作用は、”特定の瞬間”に”特定の環境”で生じたモノでゲス。
”白人”の立場から見て、もし「エルビス・プレスリー」が”ソノ”瞬間を”最も見事に解説している”とすれば、同じ「サン」レーベルにいた、
「CARL PERKINS」

は、ソノ特定の瞬間を”最も見事に記録している”って言えるでしょうナ。
「エルビス」、「ジョニー・キャッシュ」、「ジェリー・リー・ルイス」と同様に、「カール」はアメリカ南部の貧困家庭の出で、1932年4月9日にテネシー州レイク・シティで生まれているでゲス。
んで、先出の3人同様に音楽面で受けた主な影響は「ブルーズ」と「カントリー・ミュージック」だったんですナ。
・・・俺に”ギター”を教えてくれたのは年を取った”黒人”だったヨ。
俺はテネシー州レイク郡の農園で育ったんだけど、ソノ農園で働いてる”白人”は俺達だけだったネ。
”白人音楽”では「ビル・モンロー」が好きだったナ。
「モンロー」の”黒っぽいヤツ”がネ。
”黒人音楽”じゃぁ「ジョン・リー・フッカー」、「マディ・ウォーターズ」の”電気を使ったヤツ”が好きだったナ。
アノ頃でさえ、俺は「ジョン・リー」の曲を「モンロー」風に演るのが好きだったヨ。
「ブルーズ」を「カントリー」ビートで演る訳サ・・・。

んで、「エルビス」が「ザッツ・オール・ライト・ママ」で”心理的”に画期的な事を演ってのけて初めて「カール」は真剣に音楽の仕事を営る決心をしたんでゲス。
「ザッツ・オール・・・」で”隠れていたモノが表に出た”ってな感じですナ。
南部の貧しい、若い”白人”達は、メンフィスのビール・ストリートっていった場所の”黒人”社会の音楽を吸収していったんでゲス。

「ハンク・ウィリアムズ」(出た!!!)の最盛期以降、決定的な態度の変化が起きていて、「サム・フィリップス」と「エルビス」が”ソノ”転換を際立たせたんですナ。
「カール」は主に”シンガー”権”ギタリスト”っていうところが「エルビス」とは違っていて、「カール」の初期「サン」レーベルでの録音で聴かれる”リード・ギター”は、同世代の”ギタリスト”全体に刺激を与えたんでゲス。
コノ事は同時期の「エルビス」の録音で聴く事が出来る「スコッティ・ムーア」と「ビル・ブラック」のサウンドよりも、”新しい世代の感覚に近いモノ”だったみたいですナ。
「カール」は、実際に自分に問題がある事を・・・例えば”キャット・バッグ”が自分を噛んでいる事を、
「BOPPIN’ THE BLUES」
で、酒場での騒々しい喧嘩を、
「DIXIE FRIED」
で、自分の”服”と”スタイル”が大切である事を、
「BLUE SUEDE SHOES」
でといった具合で”歌”で表現して唄ったでゲス。
貧しい暮らしの若者達にとって”コノ”新しい音楽には”解放感”が内在している事を「カール」は感じ取っていて、
「ALL MAMA’S CHILDREN」
や、地元の”荒っぽい娘達”の事を”歌”にした、
「PUT YOUR CAT CLOTHES ON」
で・・・、要するに、「カール」は1950年代半ばのテネシー州の若い”ヘップ・キャット”達の事を”歌”にしたんですナ。
んで、そうしながら”楽しい気分”を捉えると同時に、ソノ時期の”切迫感”をちゃんと捉えていたんでゲス。
ソノ意味で「カール」は”優れた記録者”であり、「サン」レーベルから出た「カール」のレコードはいつまでも不思議な魅力を持った作品だって事は変わらないでしょうネ。

「カール」の活動としては、「サン」レーベルでの”最盛期”以来、殆どコレといった衝撃は与えていないんだけど、ソノ「サン」レーベル時代に与えた衝撃は”極めて重要”で、「カール」が自分の”ギター”で創り出した”スタイル”の「ロカビリー」は、今後も”永遠”だと思いますナ。

ハイ、こんなところでゲス。
んじゃぁ、又。


”白人”の立場から見て、もし「エルビス・プレスリー」が”ソノ”瞬間を”最も見事に解説している”とすれば、同じ「サン」レーベルにいた、
「CARL PERKINS」

は、ソノ特定の瞬間を”最も見事に記録している”って言えるでしょうナ。
「エルビス」、「ジョニー・キャッシュ」、「ジェリー・リー・ルイス」と同様に、「カール」はアメリカ南部の貧困家庭の出で、1932年4月9日にテネシー州レイク・シティで生まれているでゲス。
んで、先出の3人同様に音楽面で受けた主な影響は「ブルーズ」と「カントリー・ミュージック」だったんですナ。
・・・俺に”ギター”を教えてくれたのは年を取った”黒人”だったヨ。
俺はテネシー州レイク郡の農園で育ったんだけど、ソノ農園で働いてる”白人”は俺達だけだったネ。
”白人音楽”では「ビル・モンロー」が好きだったナ。
「モンロー」の”黒っぽいヤツ”がネ。
”黒人音楽”じゃぁ「ジョン・リー・フッカー」、「マディ・ウォーターズ」の”電気を使ったヤツ”が好きだったナ。
アノ頃でさえ、俺は「ジョン・リー」の曲を「モンロー」風に演るのが好きだったヨ。
「ブルーズ」を「カントリー」ビートで演る訳サ・・・。

んで、「エルビス」が「ザッツ・オール・ライト・ママ」で”心理的”に画期的な事を演ってのけて初めて「カール」は真剣に音楽の仕事を営る決心をしたんでゲス。
「ザッツ・オール・・・」で”隠れていたモノが表に出た”ってな感じですナ。
南部の貧しい、若い”白人”達は、メンフィスのビール・ストリートっていった場所の”黒人”社会の音楽を吸収していったんでゲス。

「ハンク・ウィリアムズ」(出た!!!)の最盛期以降、決定的な態度の変化が起きていて、「サム・フィリップス」と「エルビス」が”ソノ”転換を際立たせたんですナ。
「カール」は主に”シンガー”権”ギタリスト”っていうところが「エルビス」とは違っていて、「カール」の初期「サン」レーベルでの録音で聴かれる”リード・ギター”は、同世代の”ギタリスト”全体に刺激を与えたんでゲス。
コノ事は同時期の「エルビス」の録音で聴く事が出来る「スコッティ・ムーア」と「ビル・ブラック」のサウンドよりも、”新しい世代の感覚に近いモノ”だったみたいですナ。
「カール」は、実際に自分に問題がある事を・・・例えば”キャット・バッグ”が自分を噛んでいる事を、
「BOPPIN’ THE BLUES」
で、酒場での騒々しい喧嘩を、
「DIXIE FRIED」
で、自分の”服”と”スタイル”が大切である事を、
「BLUE SUEDE SHOES」
でといった具合で”歌”で表現して唄ったでゲス。
貧しい暮らしの若者達にとって”コノ”新しい音楽には”解放感”が内在している事を「カール」は感じ取っていて、
「ALL MAMA’S CHILDREN」
や、地元の”荒っぽい娘達”の事を”歌”にした、
「PUT YOUR CAT CLOTHES ON」
で・・・、要するに、「カール」は1950年代半ばのテネシー州の若い”ヘップ・キャット”達の事を”歌”にしたんですナ。
んで、そうしながら”楽しい気分”を捉えると同時に、ソノ時期の”切迫感”をちゃんと捉えていたんでゲス。
ソノ意味で「カール」は”優れた記録者”であり、「サン」レーベルから出た「カール」のレコードはいつまでも不思議な魅力を持った作品だって事は変わらないでしょうネ。

「カール」の活動としては、「サン」レーベルでの”最盛期”以来、殆どコレといった衝撃は与えていないんだけど、ソノ「サン」レーベル時代に与えた衝撃は”極めて重要”で、「カール」が自分の”ギター”で創り出した”スタイル”の「ロカビリー」は、今後も”永遠”だと思いますナ。

ハイ、こんなところでゲス。
んじゃぁ、又。


2011年9月26日 16時33分50秒 (Mon)
「BEAT」と”私立探偵小説”
俺の大好きな1950年代ってのは、
”政治的に酷い年代”
でしたナ。
”朝鮮動乱”の後、アメリカとソ連の間で”冷たい戦争”が戦われていて、軍人上がりの「アイゼンハワー」大統領が”軍産共同体”を表面化させて、「マッカーシー」旋風が吹き荒れて、”共産主義者”って見なされた”映画人”、”作家”達が、職を失ったり、”ブラック・リスト”に載ったり、自ら命を絶ったり、ヒドイ目に遭っていたでゲス。
ソノ時の”下院非米委員会”の委員の1人は、後でアメリカ全国民を裏切る「リチャード・ニクソン」であり、「ジョウ・マッカーシー」の”法律顧問”は、後に”ニューヨーク法曹界”で威張っている「ロイ・コウン」だったですナ。
んで、話は飛んじゃうんだけど、出版界じゃぁ”廉価本”のペイパーバック(パルプ・フィクション)が、
”ペイパーバック革命”
って呼ばれる程に普及して、ソレ迄人気だったパルプ・マガジンの多くを廃刊に追い遣ったんでゲス。
特に「マッカーシー」旋風に上手く便乗した”反共的”「ミッキー・スピレイン」の、

「I, THE JURY」(邦題「裁くのは俺だ」)

は、ベストセラーになって、「ピーター・ボグダノヴィッチ」監督の映画の、
「THE LAST PICTURE SHOW」1971年(邦題「ラスト・ショー」)
での見られる様に、学生達の間じゃぁ、
”SEX教則本”
になった程でしたナ。
ソノ後、「スピレイン」は、
「MY GUN IS QUICK」(邦題「俺の拳銃は素早い」)

「VENGEANCE IS MINE」(邦題「復讐は俺の手に」)

「THE BIG KILL」(邦題「大いなる殺人」)

「KISS ME, DEADLY」(邦題「燃える接吻を」)

等の”赤狩り”探偵「マイク・ハマー」モノを書いて、1950年代の後半は、”長編小説”を発表していないでゲス。
んでも、1948年に出版された「裁くのは・・・」のペイパーバック版(「シグネット・ブックス」)は、よく売れましたナ。
1953年以後、「スピレイン」が”長編小説”を書かなくなってから、亜流が多数登場して、退場していったでゲス。
コノ中で”1番有名”(あるいは”悪名高い”)のは、「カーター・ブラウン」の色々なシリーズでしょうナ。
”アクション”と軽い”お色気”さえありゃぁ、”性格模写”や”プロット”等は大して重要じゃぁなかったんでゲス。
「シグネット」版じゃぁ、「ブラウン」の文章よりも、「ボブ・マッギネス」の”表紙のイラストレーション”の方が価値がありましたナ。
1950年代に創刊された”幻のハードボイルド小説雑誌”の、
「MANHUNT」
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は、1953年1月号創刊(「スピレイン」の短編「EVERYDODY’S WATCHING ME」(邦題「狙われた男」)も掲載)されて、ココでも、女性にモテるハードボイルド探偵達が沢山登場してるでゲス。
「ヘンリー・ケイン」の「ピート・チェイムバーズ」、「リチャード・プラザー」の「シェル・スコット」、「フランク・ケイン」の「ジョニー・リデル」、「ハロルド・Q・マスア」の「スコット・ジョーダン」、「リチャード・デミング」の「マニー・ムーン」、「エヴァン・ハンター」の「カート・キャノン」等は今でも有名だけど、殆どの”作家”が消えて忘れ去られてますナ。
”アクション”と”お色気”を描くのに精一杯で、”主人公”や”プロット”に独創性が無くって、ソノ場限りの娯楽に終っちゃったからだと思うでゲス。
んでも、”「スピレイン」ブーム”の”陰”で真面目な”私立探偵小説”を書いていた”作家”もいたんですヨ。
「スピレイン」よりも「レイモンド・チャンドラー」の影響を強く受けた「ロス・マクドナルド」でゲス。
「マクドナルド」は、本名の「ケネス・ミラー」名義で1944年に、
「 THE DARK TUNNEL」(邦題「暗いトンネル」)
を書いて、「ジョン・マクドナルド」名義で1949年に”「リュウ・アーチャー」シリーズ”第1作の、
「THE MOVING TARGET」(邦題「動く標的」)

を発表しましたナ。
ソノ後、”傑作”ってされている、
「THE DOOMSTERS」(邦題「運命」)
や、
「THE GALTON CASE」(邦題「ギャルトン事件」)
も含めて、1950年代には”7作”の「アーチャー」モノを書いているでゲス。
「トーマス・B・デューイ」は、1947年にシカゴ探偵の「マック」モノの第1作の、
「DAME IN DANDER」(邦題「死はわがパートナー」)
を書いて、1950年代には、
「THE MEAN STREETS」(邦題「非情の街」)
を含めて「マック」モノを”6作”著していますナ。
さてさて、アノ”正統派”「レイモンド・チャンドラー」はというと、1955年に”名作”の、
「THE LONG GOODBYE」(邦題「長いお別れ」)

を発表しているんでゲス。
今から考えると1950年代に”地味”だった「マクドナルド」や「デューイ」等は”見直されるべき”だと思うんだけどネ。
んで、1950年代は、
”文化的には良かった(好かった)年代”
で、20世紀後半の”偉大なアメリカ小説家”の「J・D・サリンジャー」が、1950年代初頭に発表した、
「THE CATCHER IN THE RYE」(邦題「ライ麦畑でつかまえて」)

の登場でゲス。
当時、アメリカ南部の”公立学校”が、学生に”読むな!”って忠告した程”偉大”な作品ですナ。(理由は自分で読んでください。)
さてさて、ココで俺の話でゲス。
もう既に、ご存知かと思うんだけど、俺は産まれてからズ~ッと両親の影響で、”アメリカン・カルチャー”の中(って言っても、日本人から見た)で生活してきて、「ポップス」も「ロックンロール(「ロック」)」も「ジャズ(「スウィング・ジャズ」)も極々普通に”生活の1部”だったんですヨ。
そんな環境の中で、「ロカビリー」と「ビ・バップ」を知った高校生の時の”ショック”は今でも忘れられない出来事だったんでゲス。
物事を”極端に考える癖”があった俺は、ソレ以前から知っていたモノは、
”全部「ガキ」の音楽”(只、単に自分が年齢的に「ガキ」だっただけのくせにネ。)
ってな、錯覚をしていて、特に「ビ・バップ」は、”新鮮”で、”熱気”があって、自分の中にある”反骨精神”とピッタリ合っていたんですナ。
1950年代の「ビ・バップ」は、”黒人ジャズマン”が、
”白人体制に立ち向かう肉声”
で、ソコら辺を聴いていた頃の俺は、
”早く大人に成りたかった”
んでゲス。
別に、”煙草を喫って、酒を喰らえば大人に成れる”ってな事じゃぁ無くって、
”大人っぽい感覚を持ちたい”
が為に「ビ・バップ」を聴いて、「ミステリー」小説を読んで、「映画」を観たんですナ。
まぁ、そんな頃(だったと思う。)に、
「ランバート、ヘンドリックス&ロス」
をFMラジオで知って、3人の”早口”にもビックリしたんだけど、「ジョン・ヘンドリックス」の”詞”にゃぁもっと衝撃を受けたんでゲス。
何か、学校じゃぁ教えてくれない”英語”なのネ。
どうやら、ソノ頃の”黒人ジャズマン”が使っていた”スラング”だと、ラジオの”DJ”が言ってたんでゲス。
10年後、20年後に”白人ロッカー”達が使う事になる”スラング”ですナ。
俺が”アメリカン・スラング”に興味を覚えたのは、「ミステリー」小説の”犯罪スラング”よりも、むしろ”「ジャズ」スラング”の所為かもって思うんでゲス。
んで、”「ジャズ」っぽい”話があるゾ!ってんで、読んだのが”ビート・ジェネレーション”作品でしたナ。
「新英和中辞典」によると、”ビート・ジェネレーション”ってのは、
”人生に望みを失い、思想、音楽、空想三昧に耽ったり、異様な服装をしたり、気ままに振舞う人達”
ってな説明が付いているんだけど、”コレ”は”体制派”(順応した”スクエア”な連中)の視点でゲス。
元来、「BEAT」ってのは、「ジャック・ケルアック」の命名で、普通は、
”(生活に)打ちひしがれた”
って訳されて、”「ジャズ」のビート”が語源だと考えられているけど、
「BEATIFIC」
もしくは、
「BEATIFIED」(至福を与えられた。)
が縮まった言葉って考えたいですナ。
”伝統派文化研究者”達は、「ビート」の作品を、
”素人のクズ”
って貶しているでゲス。
勿論、「ビート」は”文学面”だけじゃぁ無く、”社会面”、ファッション面”、”思想面”でも”知識階級”に大きな影響を及ぼしましたナ。
「アレン・ギンズバーグ」の”詩”は、ソレ迄の伝統的な”押韻詩”とは違って、自由奔放だったし、先出の「ケルアック」の小説は、「トルーマン・カポウティ」が”タイプライティング”と称した様に、「ジャズ」のアドリブに似た即興の文章でゲス。
「リロイ・ジョウンズ」は、
「BLUES PEOPLE」(邦題「ブルース・ピープル」)
を著しましたナ。
”コレ”は、今迄の上品ぶった文学界に対する”反抗”だったんでゲス。
彼等は、”コーヒー・ハウス”で”「ジャズ」プレイヤー”達の伴奏を付けて”詩”を朗読して、”禅”に関心を示して、「ジャズ」に聴き入り、”規制社会”から遠ざかろうとするんですヨ。
”ボヘミアン”的な生活を好んで、殆どはヴィレッジとかチェルシーに住んでいたでゲス。
んで、俺がよく知ってる(記憶にある)1980年代は、”政治的”には、
”酷い年代”
でしたナ。
”アメリカ大統領”、”イギリス首相”、”日本国総理大臣”の顔ぶれを見りゃぁ解かるでしょ。
んで、現在ネ。
もっと酷くなってるでゲス。
”オチ”がコレじゃぁ、疲れるでゲス。
なので、もう終わりますナ。
んじゃぁ、又。
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”政治的に酷い年代”
でしたナ。
”朝鮮動乱”の後、アメリカとソ連の間で”冷たい戦争”が戦われていて、軍人上がりの「アイゼンハワー」大統領が”軍産共同体”を表面化させて、「マッカーシー」旋風が吹き荒れて、”共産主義者”って見なされた”映画人”、”作家”達が、職を失ったり、”ブラック・リスト”に載ったり、自ら命を絶ったり、ヒドイ目に遭っていたでゲス。
ソノ時の”下院非米委員会”の委員の1人は、後でアメリカ全国民を裏切る「リチャード・ニクソン」であり、「ジョウ・マッカーシー」の”法律顧問”は、後に”ニューヨーク法曹界”で威張っている「ロイ・コウン」だったですナ。
んで、話は飛んじゃうんだけど、出版界じゃぁ”廉価本”のペイパーバック(パルプ・フィクション)が、
”ペイパーバック革命”
って呼ばれる程に普及して、ソレ迄人気だったパルプ・マガジンの多くを廃刊に追い遣ったんでゲス。
特に「マッカーシー」旋風に上手く便乗した”反共的”「ミッキー・スピレイン」の、

「I, THE JURY」(邦題「裁くのは俺だ」)

は、ベストセラーになって、「ピーター・ボグダノヴィッチ」監督の映画の、
「THE LAST PICTURE SHOW」1971年(邦題「ラスト・ショー」)
での見られる様に、学生達の間じゃぁ、
”SEX教則本”
になった程でしたナ。
ソノ後、「スピレイン」は、
「MY GUN IS QUICK」(邦題「俺の拳銃は素早い」)

「VENGEANCE IS MINE」(邦題「復讐は俺の手に」)

「THE BIG KILL」(邦題「大いなる殺人」)

「KISS ME, DEADLY」(邦題「燃える接吻を」)

等の”赤狩り”探偵「マイク・ハマー」モノを書いて、1950年代の後半は、”長編小説”を発表していないでゲス。
んでも、1948年に出版された「裁くのは・・・」のペイパーバック版(「シグネット・ブックス」)は、よく売れましたナ。
1953年以後、「スピレイン」が”長編小説”を書かなくなってから、亜流が多数登場して、退場していったでゲス。
コノ中で”1番有名”(あるいは”悪名高い”)のは、「カーター・ブラウン」の色々なシリーズでしょうナ。
”アクション”と軽い”お色気”さえありゃぁ、”性格模写”や”プロット”等は大して重要じゃぁなかったんでゲス。
「シグネット」版じゃぁ、「ブラウン」の文章よりも、「ボブ・マッギネス」の”表紙のイラストレーション”の方が価値がありましたナ。
1950年代に創刊された”幻のハードボイルド小説雑誌”の、
「MANHUNT」
.jpg)
は、1953年1月号創刊(「スピレイン」の短編「EVERYDODY’S WATCHING ME」(邦題「狙われた男」)も掲載)されて、ココでも、女性にモテるハードボイルド探偵達が沢山登場してるでゲス。
「ヘンリー・ケイン」の「ピート・チェイムバーズ」、「リチャード・プラザー」の「シェル・スコット」、「フランク・ケイン」の「ジョニー・リデル」、「ハロルド・Q・マスア」の「スコット・ジョーダン」、「リチャード・デミング」の「マニー・ムーン」、「エヴァン・ハンター」の「カート・キャノン」等は今でも有名だけど、殆どの”作家”が消えて忘れ去られてますナ。
”アクション”と”お色気”を描くのに精一杯で、”主人公”や”プロット”に独創性が無くって、ソノ場限りの娯楽に終っちゃったからだと思うでゲス。
んでも、”「スピレイン」ブーム”の”陰”で真面目な”私立探偵小説”を書いていた”作家”もいたんですヨ。
「スピレイン」よりも「レイモンド・チャンドラー」の影響を強く受けた「ロス・マクドナルド」でゲス。
「マクドナルド」は、本名の「ケネス・ミラー」名義で1944年に、
「 THE DARK TUNNEL」(邦題「暗いトンネル」)
を書いて、「ジョン・マクドナルド」名義で1949年に”「リュウ・アーチャー」シリーズ”第1作の、
「THE MOVING TARGET」(邦題「動く標的」)

を発表しましたナ。
ソノ後、”傑作”ってされている、
「THE DOOMSTERS」(邦題「運命」)
や、
「THE GALTON CASE」(邦題「ギャルトン事件」)
も含めて、1950年代には”7作”の「アーチャー」モノを書いているでゲス。
「トーマス・B・デューイ」は、1947年にシカゴ探偵の「マック」モノの第1作の、
「DAME IN DANDER」(邦題「死はわがパートナー」)
を書いて、1950年代には、
「THE MEAN STREETS」(邦題「非情の街」)
を含めて「マック」モノを”6作”著していますナ。
さてさて、アノ”正統派”「レイモンド・チャンドラー」はというと、1955年に”名作”の、
「THE LONG GOODBYE」(邦題「長いお別れ」)

を発表しているんでゲス。
今から考えると1950年代に”地味”だった「マクドナルド」や「デューイ」等は”見直されるべき”だと思うんだけどネ。
んで、1950年代は、
”文化的には良かった(好かった)年代”
で、20世紀後半の”偉大なアメリカ小説家”の「J・D・サリンジャー」が、1950年代初頭に発表した、
「THE CATCHER IN THE RYE」(邦題「ライ麦畑でつかまえて」)

の登場でゲス。
当時、アメリカ南部の”公立学校”が、学生に”読むな!”って忠告した程”偉大”な作品ですナ。(理由は自分で読んでください。)
さてさて、ココで俺の話でゲス。
もう既に、ご存知かと思うんだけど、俺は産まれてからズ~ッと両親の影響で、”アメリカン・カルチャー”の中(って言っても、日本人から見た)で生活してきて、「ポップス」も「ロックンロール(「ロック」)」も「ジャズ(「スウィング・ジャズ」)も極々普通に”生活の1部”だったんですヨ。
そんな環境の中で、「ロカビリー」と「ビ・バップ」を知った高校生の時の”ショック”は今でも忘れられない出来事だったんでゲス。
物事を”極端に考える癖”があった俺は、ソレ以前から知っていたモノは、
”全部「ガキ」の音楽”(只、単に自分が年齢的に「ガキ」だっただけのくせにネ。)
ってな、錯覚をしていて、特に「ビ・バップ」は、”新鮮”で、”熱気”があって、自分の中にある”反骨精神”とピッタリ合っていたんですナ。
1950年代の「ビ・バップ」は、”黒人ジャズマン”が、
”白人体制に立ち向かう肉声”
で、ソコら辺を聴いていた頃の俺は、
”早く大人に成りたかった”
んでゲス。
別に、”煙草を喫って、酒を喰らえば大人に成れる”ってな事じゃぁ無くって、
”大人っぽい感覚を持ちたい”
が為に「ビ・バップ」を聴いて、「ミステリー」小説を読んで、「映画」を観たんですナ。
まぁ、そんな頃(だったと思う。)に、
「ランバート、ヘンドリックス&ロス」
をFMラジオで知って、3人の”早口”にもビックリしたんだけど、「ジョン・ヘンドリックス」の”詞”にゃぁもっと衝撃を受けたんでゲス。
何か、学校じゃぁ教えてくれない”英語”なのネ。
どうやら、ソノ頃の”黒人ジャズマン”が使っていた”スラング”だと、ラジオの”DJ”が言ってたんでゲス。
10年後、20年後に”白人ロッカー”達が使う事になる”スラング”ですナ。
俺が”アメリカン・スラング”に興味を覚えたのは、「ミステリー」小説の”犯罪スラング”よりも、むしろ”「ジャズ」スラング”の所為かもって思うんでゲス。
んで、”「ジャズ」っぽい”話があるゾ!ってんで、読んだのが”ビート・ジェネレーション”作品でしたナ。
「新英和中辞典」によると、”ビート・ジェネレーション”ってのは、
”人生に望みを失い、思想、音楽、空想三昧に耽ったり、異様な服装をしたり、気ままに振舞う人達”
ってな説明が付いているんだけど、”コレ”は”体制派”(順応した”スクエア”な連中)の視点でゲス。
元来、「BEAT」ってのは、「ジャック・ケルアック」の命名で、普通は、
”(生活に)打ちひしがれた”
って訳されて、”「ジャズ」のビート”が語源だと考えられているけど、
「BEATIFIC」
もしくは、
「BEATIFIED」(至福を与えられた。)
が縮まった言葉って考えたいですナ。
”伝統派文化研究者”達は、「ビート」の作品を、
”素人のクズ”
って貶しているでゲス。
勿論、「ビート」は”文学面”だけじゃぁ無く、”社会面”、ファッション面”、”思想面”でも”知識階級”に大きな影響を及ぼしましたナ。
「アレン・ギンズバーグ」の”詩”は、ソレ迄の伝統的な”押韻詩”とは違って、自由奔放だったし、先出の「ケルアック」の小説は、「トルーマン・カポウティ」が”タイプライティング”と称した様に、「ジャズ」のアドリブに似た即興の文章でゲス。
「リロイ・ジョウンズ」は、
「BLUES PEOPLE」(邦題「ブルース・ピープル」)
を著しましたナ。
”コレ”は、今迄の上品ぶった文学界に対する”反抗”だったんでゲス。
彼等は、”コーヒー・ハウス”で”「ジャズ」プレイヤー”達の伴奏を付けて”詩”を朗読して、”禅”に関心を示して、「ジャズ」に聴き入り、”規制社会”から遠ざかろうとするんですヨ。
”ボヘミアン”的な生活を好んで、殆どはヴィレッジとかチェルシーに住んでいたでゲス。
んで、俺がよく知ってる(記憶にある)1980年代は、”政治的”には、
”酷い年代”
でしたナ。
”アメリカ大統領”、”イギリス首相”、”日本国総理大臣”の顔ぶれを見りゃぁ解かるでしょ。
んで、現在ネ。
もっと酷くなってるでゲス。
”オチ”がコレじゃぁ、疲れるでゲス。
なので、もう終わりますナ。
んじゃぁ、又。
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2011年9月25日 20時57分21秒 (Sun)
”BAD GIRLS”
あどけない目をしたおさげ髪の少女が、激しく吹きつける雨と風に耐えながら、いなくなった子馬を必死で探している。
チェック柄の”プレリー・スカート”を穿いた若い女教師が、病弱な祖父の力になって牧場を牛泥棒から守っている。
針仕事に専念するイギリス生まれの少女は、フィアンセが戦場から帰還するのをジッと待っている。
イヤイヤ、失礼したでゲス。
俺って、コノ手の女性達を”映画の中じゃぁ求めて無い”んですナ。
どっちかというと、”邪悪な女”、”ワガママな女”、”淫らな女”ネ。
んで、そんな”罪深い女”にフィルム上で”生気”を吹き込んだ女優達がイイでゲス。


「無声映画」は全ての”悪女の母”を誕生させて、「ヴァンパイア(吸血鬼)」から「ヴァンプ(妖婦)」ってな言葉が出来て、ソノ”悪女の母”は先出の「ヴァンプ」って呼ばれていたんですナ。
1914年にコノ言葉は「セダ・バラ」っていう女優によって世の中に広まっていって(同類の女優は他にもいたんだけど、「セダ」の人気が抜きん出ていた。)数多くの”メロドラマ”で、
”男を破壊させる女の代名詞”
になったんでゲス。

「ヴァンプ」は心が冷たく、魅惑的で、平然と悪に手を染めるので、当時の観客は現在よりもズ~ッと”ウブ”だったから、ソノ悪女ぶりに憤慨して、映画を観終ると「セダ」のプロモーション用のスチールを足蹴にしたっていうエピソードがある程ですナ。
ニューヨークの歩道じゃぁ、我が子が「ラ・ベラ(「セダ」の愛称)」に話し掛けるのを見て怯えた若い母親が、警察に”通報”するなんて事もあったんでゲス。
ソノ後、有難い事に、一般大衆はスクリーンに”ふしだらな女”が出てきても受け入れてくれる様になって、抜け目の無い映画会社は”金脈を掘り当てた事に気付いて、映画がトーキーになると、大抵は”ブロンドの女優(時には”赤毛”もOK)”が気の利いたセリフを吐いていましたナ。
人を刺す様な一言で、大半の女優がシナリオ丸々1ページ分のセリフで伝えられる以上の事を、観客に伝えられる女優も登場する様になってくるんでゲス。
特に1930年代の”大恐慌時代”と、ソレ以降のハリウッドじゃぁ”ソノ”傾向が強まって、紫煙のベールを通して”性的ニュアンスを持った皮肉”を飛ばせる事が、悪女とそうじゃぁ無い平凡な役との明確な”境界線”になったんですナ。
”破滅をもたらす悪女”
”ケバケバしいブロンド娘”
”非行少女”
あと海外からやって来た”同類の女”
彼女達が生き生きと活躍した映画が、俺は本当に大好きでゲス。
サァ、映画の中へ、親指を立てて”ヒッチハイク”ダ!!!
同乗するのは”コーラスガール”、ダンスホールの”ホステス”、”ストリッパー”、毒婦”、”売春婦”っていったセクシーな一団ですゼ。
退屈な旅になる筈が無いでゲス。
何しろ彼女達がハンドルを握ってるんだからサ。


俺の場合、映画を観る楽しみの”半分”は彼女達かもなぁ。
特にどうせなら彼女達が”芯から腐りきった女”だったら、もっとイイでゲス。(映画の話ですヨ。映画の。)
もはや忘れ去られた”B級映画”の宣伝文句が、かつて高らかに謳った様に、
・・・コノ女は、男が生涯に1度だけ犯した過ちダ・・・。
映画の”ヒーロー”は2度と同じ過ちは犯さないし、幸いな事に俺も又、犯していないでゲス。

ハイ、今回はココ迄ですナ。
んじゃぁ又。




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チェック柄の”プレリー・スカート”を穿いた若い女教師が、病弱な祖父の力になって牧場を牛泥棒から守っている。
針仕事に専念するイギリス生まれの少女は、フィアンセが戦場から帰還するのをジッと待っている。
イヤイヤ、失礼したでゲス。
俺って、コノ手の女性達を”映画の中じゃぁ求めて無い”んですナ。
どっちかというと、”邪悪な女”、”ワガママな女”、”淫らな女”ネ。
んで、そんな”罪深い女”にフィルム上で”生気”を吹き込んだ女優達がイイでゲス。


「無声映画」は全ての”悪女の母”を誕生させて、「ヴァンパイア(吸血鬼)」から「ヴァンプ(妖婦)」ってな言葉が出来て、ソノ”悪女の母”は先出の「ヴァンプ」って呼ばれていたんですナ。
1914年にコノ言葉は「セダ・バラ」っていう女優によって世の中に広まっていって(同類の女優は他にもいたんだけど、「セダ」の人気が抜きん出ていた。)数多くの”メロドラマ”で、
”男を破壊させる女の代名詞”
になったんでゲス。

「ヴァンプ」は心が冷たく、魅惑的で、平然と悪に手を染めるので、当時の観客は現在よりもズ~ッと”ウブ”だったから、ソノ悪女ぶりに憤慨して、映画を観終ると「セダ」のプロモーション用のスチールを足蹴にしたっていうエピソードがある程ですナ。
ニューヨークの歩道じゃぁ、我が子が「ラ・ベラ(「セダ」の愛称)」に話し掛けるのを見て怯えた若い母親が、警察に”通報”するなんて事もあったんでゲス。
ソノ後、有難い事に、一般大衆はスクリーンに”ふしだらな女”が出てきても受け入れてくれる様になって、抜け目の無い映画会社は”金脈を掘り当てた事に気付いて、映画がトーキーになると、大抵は”ブロンドの女優(時には”赤毛”もOK)”が気の利いたセリフを吐いていましたナ。
人を刺す様な一言で、大半の女優がシナリオ丸々1ページ分のセリフで伝えられる以上の事を、観客に伝えられる女優も登場する様になってくるんでゲス。
特に1930年代の”大恐慌時代”と、ソレ以降のハリウッドじゃぁ”ソノ”傾向が強まって、紫煙のベールを通して”性的ニュアンスを持った皮肉”を飛ばせる事が、悪女とそうじゃぁ無い平凡な役との明確な”境界線”になったんですナ。
”破滅をもたらす悪女”
”ケバケバしいブロンド娘”
”非行少女”
あと海外からやって来た”同類の女”
彼女達が生き生きと活躍した映画が、俺は本当に大好きでゲス。
サァ、映画の中へ、親指を立てて”ヒッチハイク”ダ!!!
同乗するのは”コーラスガール”、ダンスホールの”ホステス”、”ストリッパー”、毒婦”、”売春婦”っていったセクシーな一団ですゼ。
退屈な旅になる筈が無いでゲス。
何しろ彼女達がハンドルを握ってるんだからサ。


俺の場合、映画を観る楽しみの”半分”は彼女達かもなぁ。
特にどうせなら彼女達が”芯から腐りきった女”だったら、もっとイイでゲス。(映画の話ですヨ。映画の。)
もはや忘れ去られた”B級映画”の宣伝文句が、かつて高らかに謳った様に、
・・・コノ女は、男が生涯に1度だけ犯した過ちダ・・・。
映画の”ヒーロー”は2度と同じ過ちは犯さないし、幸いな事に俺も又、犯していないでゲス。

ハイ、今回はココ迄ですナ。
んじゃぁ又。




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2011年9月24日 18時39分02秒 (Sat)
「ISAMU NOGUCHI」
俺ネ、ご存知の通り1950年代が好きでしょ。
んで、当然”家具”とか”インテリア”も、アノ頃の物が好きなんでゲス。
所謂、
「MID-CENTURY」
なんて云われている”アレ”ですナ。
特に、今日の日記でUpする、
「ISAMU NOGUCHI」

の、
「COFFEE TABLE」
は、いつか其の内に絶対購入したい品なんでゲス。
ところで、皆さんは「イサム・ノグチ」殿って知ってますか。
1904年11月17日ロサンゼルス生まれの”彫刻家”、”画家”、”インテリア・デザイナー”、”造園家”、”作庭家”、”舞台芸術家”の”日系アメリカ人”でゲス。
父親は愛知県生まれの日本の”詩人”で「慶應義塾大学」”教授”の「野口米次郎」殿で、母親はアメリカの”作家”で”教師”の「レオニ・ギルモア」さんなんですヨ。
1906年に、先に帰国した父親を追って母親と日本へ移住したんだけど、父親の「米次郎」殿は既に別の女性と結婚していて、母親と2人で2歳から13歳迄を東京で暮らしていたんでゲス。
小学生時代は横浜のフランス・カトリック系の私立小学校に通って、10歳頃に”木工職人”宅に通い詰めるんですナ。
1918年、母親の意思で単身で米国へ送られて、インディアナ州ローリング・プレーリー近郊の公立中学校に入学をして、両親の知人宅へ寄宿していたんでゲス。
ソノ後に公立高校を卒業して、”芸術家”を切望したため中学校長の斡旋でスタンフォード在住の”彫刻家”「ガッツォン・ボーグラム」に弟子入りが叶うんですナ。
んでも、敬愛する”師”から彫刻の適性を認めてはもらえなくって、挫折感から一時は芸術を諦めるんでゲス。
1923年ニューヨークへ移って、「コロンビア大学」医学部に入学して、日本より帰米して来た母親と暮らす様になるんですヨ。
医学部に在籍しつつ「レオナルド・ダ・ヴィンチ美術学校」の夜間の彫刻クラスに通い始めて、入学して直ぐに”初の個展”を開催する事になって、”ナショナル・スカルプチャー協会”の会員に選ばれて、”ナショナル・アカデミー・オブ・デザイン”に出品するんでゲス。
んで、”美術学校長”の「オノリオ・ルオットロ」に彫刻に専念する事を勧められるんですナ。

1925年ニューヨークで活躍していた日本人の”舞踏家”「伊藤道郎」殿の”ダンス・パフォーマンス”に”仮面”を制作して、初めて”演劇関連”のデザインをする事になるんでゲス。
1927年”グッゲンハイム奨学金”を獲得して、パリに留学をしますナ。
半年間「オーギュスト・ロダン」の弟子の”彫刻家”「コンスタンティン・ブランクーシ」に師事して”アシスタント”を努めて、夜間の美術学校に通うんでゲス。
1928年に”奨学金”の延長が認められずにニューヨークに戻って、アトリエを構えて、翌年”個展”を開くんですヨ。
1930年から好く1年にかけてパリ経由で日本へ旅立つんでゲス。
1935年”在米日本人芸術家”の「国吉康雄」殿、「石垣栄太郎」殿、「野田英夫」殿達と共にニューヨークの「邦人美術展」に出品をするんですナ。
1941年”WW2勃発”に伴って、”在米日系人の強制収容”が行われた際に自らアリゾナ州の「日系人強制収容所」に”志願拘留”されたんでゲス。
んでも、アメリカ人との”ハーフ”って事で”アメリカ側のスパイ”との噂が起って、”日本人社会”から冷遇された為に、自ら収容所からの出所を希望するんだけど、今度は”日本人だから”って事で出所出来なかったんですナ。
彼は後に”芸術家”仲間「フランク・ロイド・ライト」達の”嘆願書”により出所して、ソノ後はニューヨークのグリニッジ・ヴィレッジにアトリエを構えたんでゲス。
1947年「ジョージ・ネルソン」の依頼で「ノグチ・テーブル」を”デザイン”、”制作”する等、”インテリア・デザイン”の作品に手を染めていくんですナ。

1950年に来日して「三越」で個展を開くんでゲス。
「丹下健三」殿、「谷口吉郎」殿、「アントニン・レーモンド」等と知己になるんでゲス。
1951年、「リーダーズダイジェスト」東京支社の庭園の仕事の依頼を受け来日して、当時の”岐阜市長”の依頼で「岐阜提灯」をモチーフにした「あかり(AKARI)」シリーズのデザインを開始するんですヨ。

同年に「山口淑子(李香蘭)」さんと結婚(1955年に離婚)するんでゲス。
鎌倉の「北大路魯山人」殿に”陶芸”を学んで、素焼きの作品制作に没頭していくんですナ。
コノ頃に「魯山人」殿の邸宅敷地内にアトリエ兼住まいも構えたんでゲス。
同年に”広島平和記念公園”の”モニュメント(慰霊碑)”に「ノグチ」殿のデザインが選ばれたんだけど、
”「原爆」を落としたアメリカの人間だから”
ってな理由で選考に外れたんですナ。
とは言え、彼のデザインの一部は、”平和公園”にある「丹下健三」殿設計の「原爆慰霊碑」に生かされている(「丹下」殿はコノ”プロジェクト”に「ノグチ」殿の起用を推挙した)んでゲス。
又、”戦災復興都市計画”に伴い計画されて、”平和公園”の東西両端に位置する”平和大橋”、”西平和大橋”のデザインは、「ノグチ」殿の手によるモノで、彼は後年に”アメリカ大統領”の”慰霊碑”を設計した事もあるんだけど、こっちは”日系だから”ってな理由で却下されたんですナ。
1961年にアメリカへ戻って、ロング・アイランド・シティにアトリエを構えるんでゲス。
1964年にはアメリカの企業「IBM」本部に2つの”庭園”を設計すますナ。
1965年、横浜のこどもの国で遊園地の設計が実際の計画に移される。
1968年アメリカの「ホイットニー美術館」において大々的な”回顧展”が開催されたでゲス。
1969年「シアトル美術館」に”彫刻作品”の「黒い太陽」を設置しましたナ。
続いて「東京国立近代美術館」の為に「門」を設置したでゲス。
コノ年”ユネスコ庭園”への作品素材に香川県庵治町、牟礼町(現高松市)で産出される”花崗岩庵治石”を使った事をキッカケに牟礼町にアトリエを構えて、先出の「あかり(AKARI)」シリーズを発表しますナ。
んで、”ココ”を日本での”制作本拠”として、アメリカでの本拠ニューヨークとの往来をしながら作品制作を行うんでゲス。

1970年「大阪万国博覧会」の依頼で”噴水作品”を設計しましたナ。
1974年、”4芸術協会主催”による”パーム・ビーチ彫刻競技会”にて作品「インテトラ」が”2等”受賞して同地に設置したでゲス。
同年、東京の「最高裁判所」に”噴水”を設計し設置していますナ。
1984年ニューヨークのロング・アイランド・シティの「イサム・ノグチ庭園美術館」が一般公開されて、同年「コロンビア大学」より”名誉博士号”を授与されて、”ニューヨーク州知事賞”を受賞したでゲス。
1985年には、翌年開催の”ヴェネツィア・ビエンナーレ(第42回)”の”アメリカ代表”に選出されたんですナ。
1987年には「ロナルド・レーガン」”大統領”から”アメリカ国民芸術勲章”を受勲したんでゲス。
翌88年、”勲三等瑞宝章”を受勲しましたナ。
札幌市の”モエレ沼公園”の計画に取り組む事になって、”コレ”は公園全体を一つの彫刻に見立てた氏の「最大」の作品だったんだけど、完成を見る事無く、同年12月に心不全によって”ニューヨーク大学病院”にて84歳で亡くなったんでゲス。
1989年に、遺志を継いで「和泉正敏」殿が制作した遺作「タイム・アンド・スペース」が完成して、”新高松空港”に設置されましたヨ。
「ミッド・センチュリー」っていって、一般的に”真っ先に頭に浮かぶ物”っていえば、ヤッパリ「ハーマン・ミラー」社の”デザイナー”「チャールズ・イームズ」の、
「イームズ・チェア」
や、「ジョージ・ネルソン」デザインの、
「サンバースト・クロック」
なのかなぁ。
んでも、俺は、ヤッパ「イサム・ノグチ」殿の「コーヒー・テーブル」が”1等賞”でゲス。
ンガァ~ッ、欲し~いでゲス。

んじゃぁ、コレにて。
では、では。

んで、当然”家具”とか”インテリア”も、アノ頃の物が好きなんでゲス。
所謂、
「MID-CENTURY」
なんて云われている”アレ”ですナ。
特に、今日の日記でUpする、
「ISAMU NOGUCHI」

の、
「COFFEE TABLE」
は、いつか其の内に絶対購入したい品なんでゲス。
ところで、皆さんは「イサム・ノグチ」殿って知ってますか。
1904年11月17日ロサンゼルス生まれの”彫刻家”、”画家”、”インテリア・デザイナー”、”造園家”、”作庭家”、”舞台芸術家”の”日系アメリカ人”でゲス。
父親は愛知県生まれの日本の”詩人”で「慶應義塾大学」”教授”の「野口米次郎」殿で、母親はアメリカの”作家”で”教師”の「レオニ・ギルモア」さんなんですヨ。
1906年に、先に帰国した父親を追って母親と日本へ移住したんだけど、父親の「米次郎」殿は既に別の女性と結婚していて、母親と2人で2歳から13歳迄を東京で暮らしていたんでゲス。
小学生時代は横浜のフランス・カトリック系の私立小学校に通って、10歳頃に”木工職人”宅に通い詰めるんですナ。
1918年、母親の意思で単身で米国へ送られて、インディアナ州ローリング・プレーリー近郊の公立中学校に入学をして、両親の知人宅へ寄宿していたんでゲス。
ソノ後に公立高校を卒業して、”芸術家”を切望したため中学校長の斡旋でスタンフォード在住の”彫刻家”「ガッツォン・ボーグラム」に弟子入りが叶うんですナ。
んでも、敬愛する”師”から彫刻の適性を認めてはもらえなくって、挫折感から一時は芸術を諦めるんでゲス。
1923年ニューヨークへ移って、「コロンビア大学」医学部に入学して、日本より帰米して来た母親と暮らす様になるんですヨ。
医学部に在籍しつつ「レオナルド・ダ・ヴィンチ美術学校」の夜間の彫刻クラスに通い始めて、入学して直ぐに”初の個展”を開催する事になって、”ナショナル・スカルプチャー協会”の会員に選ばれて、”ナショナル・アカデミー・オブ・デザイン”に出品するんでゲス。
んで、”美術学校長”の「オノリオ・ルオットロ」に彫刻に専念する事を勧められるんですナ。

1925年ニューヨークで活躍していた日本人の”舞踏家”「伊藤道郎」殿の”ダンス・パフォーマンス”に”仮面”を制作して、初めて”演劇関連”のデザインをする事になるんでゲス。
1927年”グッゲンハイム奨学金”を獲得して、パリに留学をしますナ。
半年間「オーギュスト・ロダン」の弟子の”彫刻家”「コンスタンティン・ブランクーシ」に師事して”アシスタント”を努めて、夜間の美術学校に通うんでゲス。
1928年に”奨学金”の延長が認められずにニューヨークに戻って、アトリエを構えて、翌年”個展”を開くんですヨ。
1930年から好く1年にかけてパリ経由で日本へ旅立つんでゲス。
1935年”在米日本人芸術家”の「国吉康雄」殿、「石垣栄太郎」殿、「野田英夫」殿達と共にニューヨークの「邦人美術展」に出品をするんですナ。
1941年”WW2勃発”に伴って、”在米日系人の強制収容”が行われた際に自らアリゾナ州の「日系人強制収容所」に”志願拘留”されたんでゲス。
んでも、アメリカ人との”ハーフ”って事で”アメリカ側のスパイ”との噂が起って、”日本人社会”から冷遇された為に、自ら収容所からの出所を希望するんだけど、今度は”日本人だから”って事で出所出来なかったんですナ。
彼は後に”芸術家”仲間「フランク・ロイド・ライト」達の”嘆願書”により出所して、ソノ後はニューヨークのグリニッジ・ヴィレッジにアトリエを構えたんでゲス。
1947年「ジョージ・ネルソン」の依頼で「ノグチ・テーブル」を”デザイン”、”制作”する等、”インテリア・デザイン”の作品に手を染めていくんですナ。

1950年に来日して「三越」で個展を開くんでゲス。
「丹下健三」殿、「谷口吉郎」殿、「アントニン・レーモンド」等と知己になるんでゲス。
1951年、「リーダーズダイジェスト」東京支社の庭園の仕事の依頼を受け来日して、当時の”岐阜市長”の依頼で「岐阜提灯」をモチーフにした「あかり(AKARI)」シリーズのデザインを開始するんですヨ。

同年に「山口淑子(李香蘭)」さんと結婚(1955年に離婚)するんでゲス。
鎌倉の「北大路魯山人」殿に”陶芸”を学んで、素焼きの作品制作に没頭していくんですナ。
コノ頃に「魯山人」殿の邸宅敷地内にアトリエ兼住まいも構えたんでゲス。
同年に”広島平和記念公園”の”モニュメント(慰霊碑)”に「ノグチ」殿のデザインが選ばれたんだけど、
”「原爆」を落としたアメリカの人間だから”
ってな理由で選考に外れたんですナ。
とは言え、彼のデザインの一部は、”平和公園”にある「丹下健三」殿設計の「原爆慰霊碑」に生かされている(「丹下」殿はコノ”プロジェクト”に「ノグチ」殿の起用を推挙した)んでゲス。
又、”戦災復興都市計画”に伴い計画されて、”平和公園”の東西両端に位置する”平和大橋”、”西平和大橋”のデザインは、「ノグチ」殿の手によるモノで、彼は後年に”アメリカ大統領”の”慰霊碑”を設計した事もあるんだけど、こっちは”日系だから”ってな理由で却下されたんですナ。
1961年にアメリカへ戻って、ロング・アイランド・シティにアトリエを構えるんでゲス。
1964年にはアメリカの企業「IBM」本部に2つの”庭園”を設計すますナ。
1965年、横浜のこどもの国で遊園地の設計が実際の計画に移される。
1968年アメリカの「ホイットニー美術館」において大々的な”回顧展”が開催されたでゲス。
1969年「シアトル美術館」に”彫刻作品”の「黒い太陽」を設置しましたナ。
続いて「東京国立近代美術館」の為に「門」を設置したでゲス。
コノ年”ユネスコ庭園”への作品素材に香川県庵治町、牟礼町(現高松市)で産出される”花崗岩庵治石”を使った事をキッカケに牟礼町にアトリエを構えて、先出の「あかり(AKARI)」シリーズを発表しますナ。
んで、”ココ”を日本での”制作本拠”として、アメリカでの本拠ニューヨークとの往来をしながら作品制作を行うんでゲス。

1970年「大阪万国博覧会」の依頼で”噴水作品”を設計しましたナ。
1974年、”4芸術協会主催”による”パーム・ビーチ彫刻競技会”にて作品「インテトラ」が”2等”受賞して同地に設置したでゲス。
同年、東京の「最高裁判所」に”噴水”を設計し設置していますナ。
1984年ニューヨークのロング・アイランド・シティの「イサム・ノグチ庭園美術館」が一般公開されて、同年「コロンビア大学」より”名誉博士号”を授与されて、”ニューヨーク州知事賞”を受賞したでゲス。
1985年には、翌年開催の”ヴェネツィア・ビエンナーレ(第42回)”の”アメリカ代表”に選出されたんですナ。
1987年には「ロナルド・レーガン」”大統領”から”アメリカ国民芸術勲章”を受勲したんでゲス。
翌88年、”勲三等瑞宝章”を受勲しましたナ。
札幌市の”モエレ沼公園”の計画に取り組む事になって、”コレ”は公園全体を一つの彫刻に見立てた氏の「最大」の作品だったんだけど、完成を見る事無く、同年12月に心不全によって”ニューヨーク大学病院”にて84歳で亡くなったんでゲス。
1989年に、遺志を継いで「和泉正敏」殿が制作した遺作「タイム・アンド・スペース」が完成して、”新高松空港”に設置されましたヨ。
「ミッド・センチュリー」っていって、一般的に”真っ先に頭に浮かぶ物”っていえば、ヤッパリ「ハーマン・ミラー」社の”デザイナー”「チャールズ・イームズ」の、
「イームズ・チェア」
や、「ジョージ・ネルソン」デザインの、
「サンバースト・クロック」
なのかなぁ。
んでも、俺は、ヤッパ「イサム・ノグチ」殿の「コーヒー・テーブル」が”1等賞”でゲス。
ンガァ~ッ、欲し~いでゲス。

んじゃぁ、コレにて。
では、では。

プロフィール

- 自己紹介
- WW2以降1970年代迄の”映画”、”音楽”、”ファッション”等などが大好きな、
”「BEAT」野郎”
で、特に1950年代が大好物でゲス。
岐阜で「MEMPHIS」っていうアメカジ店を2010年1月末日迄やってましたが、現在は家業をついで”製帽業”をしてますヨ。(「CA4LA」、「ポール・スチュアート」、「ザ・スコッチ・ハウス」、「コムサ・デ・モード」等より仕事を頂いているでゲス。)
他にも個人的に「MEMPHIS工房」として”帽子”製作、販売していますヨ。(コチラは出来上がり次第「作品集」のコーナーに随時Upしますのでご覧くださいませ、ませ。 詳細のお問い合わせ承りますので、お気軽にどうぞ。)
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