2014年7月 アーカイブ
2014年7月30日 20時06分08秒 (Wed)
「AULD LANG SYNE」
「アッ、忘れてた!!! 急で悪いんだけど買い物に乗せて行って。」
ってな事を言い出して、夜8時過ぎにソノ店に向かったんでゲス。
んで、何とか閉店前にゃぁ到着したんだけど、店内じゃぁ既に”閉店ミュージック”が流れていたんですナ。
所謂、
「蛍の光」
ってのでゲス。
まぁ、ドンズバじゃぁないんだけど、こんな感じでネ。
そもそも”コノ”曲ってのは、
「AULD LANG SYNE」
っていう、「スコットランド民謡」で、”非公式準国歌”みたいですネ。
んでサ、俺としちゃぁ、
「”閉店ミュージック”だったらコッチでしょ。」
って言いたいでゲス。
「別れのワルツ」
ですナ。
ン? 何が違うの?
って方もいるかと思うんだけど、よく聴いてみてくださいナ。
前2曲は、
”4拍子”
で、「別れの・・・」は、
”3拍子”(「ワルツ」なんだから当然でゲス。)
なんですナ。
閉店でお客さんとお別れするんだから、どうせなら「別れの・・・」を流してほしいモノでゲス。
当の店スタッフは解っているのかどうかは?
案外コノ事は”デパート”や”高級品店”の閉店時間になるとあったりして、何だか”高級品感台無し”でソノ都度”ト・ホ・ホ気分”になったでゲス。
まぁ、イイか。
んな事を思っているのは俺くらいなモンでしょうからサ。
ってな感じで、今回はオシマイですヨ。
そうそう、お袋ちゃんの買い物は無事出来たでゲス。
んじゃぁ、コレにて。
では、では。
2014年7月21日 12時30分42秒 (Mon)
「ウィリアム・ワイラー」
「WILLIAM WYLER」

のUpでゲス。
”心理描写”や人物の”性格表現”に長けていて、ガッチリとしたドラマ構成に基づく映画技術で、非常に幅広いジャンルの映画制作で活躍しましたナ。
1902年7月1日、生まれた時の姓名は「ヴィルヘルム・ヴァイラー」っていいますナ。
ドイツ帝国のミュールハウゼン(現フランス)にて、小物屋を営むユダヤ系家庭に生まれているでゲス。
父親はユダヤ系スイス人、母親もユダヤ系ドイツ人で、両親共にユダヤ教徒でもあったそうですナ。
「ヴィルヘルム」は家業を継ぐことを嫌って、パリに赴いて音楽を学んだんだけど挫折してしまって結局、母方の親戚(遠縁)に当時のハリウッドの重鎮「カール・レムリ」(「ユニヴァーサル・スタジオ」社長)がいた事から映画の道を志して、1920年に18歳で渡米するんでゲス。
先ず「ユニヴァーサル」社のニューヨーク本社で”雑用係”として働き、ソノ後、国際宣伝部を経てハリウッドに移って、オフィスの”雑用係”、撮影所の”小道具係”、”配役係”、”助監督”ってな具合で着実に製作現場での経験を積んで立場を上げていくんですナ。
んで、1925年(26年説も)に”映画監督”に昇進して、短編の「西部劇」でデビューするんでゲス。
「恋のからくり」や「砂漠の生霊」等の作品が評価されて、入社以来付き纏っていた“社長のコネで入った男”のイメージを見事に払拭して、1930年代にゃぁ「ユニヴァーサル」社の主要監督の一人になるんですナ。
”アカデミー監督賞”を3回受賞、ノミネート回数は12回に上るという偉大な記録は未だに破られていないでゲス。

”俳優”と”スタッフ”への要求を通して事実を積み重ねていって、フィクションとしての映画を完成させた完璧主義者で、スタジオ関係者から”ナインティ・テイク・ワイラー”ってな渾名される程、自分が納得する迄、時にゃぁ90回も撮り直す程のこだわりはことに有名だったみたいですナ。
コノ様な演出方式から、又、指示の際に彼が完璧な英語を操れないという意思疎通上の問題も一因となっていて、しばしば”俳優”や”スタッフ”との間に軋轢を引き起こした事でも知られて、先出どおり「ベティ・デイヴィス」は「ワイラー」作品での演技でオスカーを受賞しているんだけど、実りをもたらした反面、「ワイラー」と「ベティ」との撮影時の対立は特に凄まじいモノだったらしいでゲス。
兎に角、沢山、いっぱい、ゴッテシ作品を残している”監督”なので、特に大好きな1950年代、しかも観た作品のみUpしますネ。
「DETECTIVE STORY」1951年(邦題「探偵物語」)

出演は、「カークダグラス」、「エリノア・パーカー」、「ウィリアム・ベンディックス」、「キャシー・オドネル」等など。


「ROMAN HOLIDAY」1953年(邦題「ローマの休日」)

出演は、「グレゴリー・ペック」、「オードリー・ヘプバーン」、「エディ・アルバート」等など。


「THE DESPERATE HOURS」1955年(邦題「必死の逃亡者」)

出演は、「ハンフリー・ボガート」、「フレドリック・マーチ」、「アーサー・ケネディ」、「デューイ・マーティン」、「ロバート・ミドルトン」、「マーサ・スコット」、「メアリー・マーフィ」、「ギグ・ヤング」等など。


「FRIENDLY PERSUASION」1956年(邦題「友情ある説得」)

出演は、「ゲーリー・クーパー」、「ドロシー・マクガイアー」、「アンソニー・パーキンス」等など。


「THE BIG COUNTRY」1958年(邦題「大いなる西部」)

出演は、「グレゴリー・ペック」、「ジーン・シモンズ」、「キャロル・ベイカー」、「チャールトン・ヘストン」、「バール・アイヴス」、「チャールズ・ビックフォード」、「チャック・コナーズ」等など。


「BEN-HUR」1959年(邦題「ベン・ハー」)

出演は、「チャールトン・ヘストン」、「スティーヴン・ボイド」、「ジャック・ホーキンス」、「ハイヤ・ハラリート」、「ヒュー・グリフィス」、「マーサ・スコット」等など。


そうそう、「ウィリアム」の娘「キャサリン・ワイラー」は”プロデューサー”として現在ハリウッドで活躍していて、1990年に「戦争映画」の「メンフィス・ベル」を制作していて、コノ作品は1944年に「ウィリアム」が制作した「ドキュメンタリー映画」を基にしたみたいですナ。

まぁ、こんなところですかネ。
んじゃぁ、コレにて。
では、では。


















2014年7月16日 21時05分07秒 (Wed)
「ボブ・ルーマン」・・・「リッキー・ネルソン」・・・んで、「エルヴィス」 誰だか分かりますネ。

そう、
「JAMES BURTON」
ですナ。
10代中頃からプロの”ギタリスト”して活動を始めて、1957年に「デイル・ホーキンス」が発表した「スージーQ」で一躍注目されたでゲス。
んで、コノ時15歳だったらしいですナ。
特徴的なギター・リフも「ジェームズ」が考えたもので、殆どの部分を「ジェームズ」が作曲したと言ってもイイみたいでゲス。
ソノ後、「ボブ・ルーマン」と組んでバック・バンドの「ザ・シャドウズ」として活動していましたナ。

「ボブ」との公演中に「リッキー・ネルソン」の目に留まって、まんまバンドごと「リッキー」のバックを務める事になるんでゲス。


「リッキー」宅に1年間くらい居候した事もある程個人的にも仲がよかったんだけど次第に、
「リッキーばっかりは嫌だ!」
ってな事で、バンドを脱退しましたナ。
ソノ後、「エルヴィス」の”TCBバンド・リーダー”に任命されて、1969年~77年迄の「エルヴィス」のステージで”リード・ギター”を勤めるんでゲス。

大好きな、
「POLK SALAD ANNIE」
もUpですヨ。
少し前には活動していたみたいなんだけど、現在はどうなんだろう?

最後に、”コレ”はいつ頃のなのか?なんだけど、
ってな感じで、ココ迄でゲス。
んじゃぁ、又。







プロフィール

- 自己紹介
- WW2以降1970年代迄の”映画”、”音楽”、”ファッション”等などが大好きな、
”「BEAT」野郎”
で、特に1950年代が大好物でゲス。
岐阜で「MEMPHIS」っていうアメカジ店を2010年1月末日迄やってましたが、現在は家業をついで”製帽業”をしてますヨ。(「CA4LA」、「ポール・スチュアート」、「ザ・スコッチ・ハウス」、「コムサ・デ・モード」等より仕事を頂いているでゲス。)
他にも個人的に「MEMPHIS工房」として”帽子”製作、販売していますヨ。(コチラは出来上がり次第「作品集」のコーナーに随時Upしますのでご覧くださいませ、ませ。 詳細のお問い合わせ承りますので、お気軽にどうぞ。)
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