2023年6月 アーカイブ
2023年6月21日 14時32分55秒 (Wed)
「エルヴィス」登場の影響と波及 (パート5)
前回は、「ノーマン・ペティ・スタジオ」でレコーディングした「ザ・リズム・オーキッズ」の、
「PARTY DOLL」
が、「ポップ・チャート」1位になって、遂に「ノーマン・ペティ・スタジオ」からナンバーワン・ヒットが出たところ迄Upしましたナ。
「ザ・リズム・オーキッズ」が、先輩格であるところの「バディ・ホリー」や「ロイ・オービソン」を差し置いて大ヒットして早くスターになっちゃったでゲス。
丁度ソノ頃「バディ・ホリー」達は”リード・ギター”の、
「ソニー・カーティス」

が、バンドを脱退したんですナ。
そんなんで「バディ・ホリー」は色々なスタイルを研究するんでゲス。
先ずは、
「チャック・ベリー」

「BROWN EYED HANDSOME MAN」
を、
とか、
「ボ・ディドリー」

「BO DIDDLEY」
を、
ってな具合で演ってみたりして、色々と頑張ってみるんですナ。
んで、2枚シングル盤をリリースするんだけど、全くヒットしないんでゲス。
遂に1957年1月「デッカ」レーベルから契約を打ち切る話が持ち上がるんですナ。
以前”「エルヴィス」登場の影響と波及 (パート2)”のところでUpした、
”「バディ・ホリー」が契約問題で揉める”
ってところに繋がるんでゲス。
何が”問題”なのかというと「デッカ」レーベル側は、
”1956年夏にレコーディングしたお蔵入りした曲を、向こう6年間は新録もしてはならない。”
っていうモノで、「ホリー」側としちゃぁ何とか新録でリリースしたいと悩んでいたんですナ。
”ソコ”で助け舟を出した人がいて、「デッカ」レーベルの兄弟レーベルの「コーラル」レーベル社長の、
「ボブ・シール」

で、彼曰く、
「以前に契約したのはバディ個人だから、今度はグループでリリースすればイイだろ。 早速グループ名を考えて・・・。」
ってなアイデアを出したんでゲス。
んで、
「ザ・クリケッツ」

っていうグループ名で、WW2後「コーラル」レーベルの管理下にあった「ブランズウィック」レーベルから再録してリリースした曲が、
「THAT’LL BE THE DAY」
で、唄っているのも「バディ・ホリー」だしバックも何にも変わってないんだけど、「デッカ」レーベルと契約で揉めたので結果こういう事になったんですナ。
んでも、ナッシュヴィルの「ブラッドリー・スタジオ」バージョンよりもイイ仕上がりになっているのはプロデューサー「ノーマン・ペティ」の助言があったのかもなぁ。
1957年8月にチャート登場して、見事「ポップ・チャート」1位を獲得して、「リズムンブルーズ・チャート」でも2位ってな大ヒットだったでゲス。
「ノーマン・ペティ・スタジオ」から「パーティー・ドール」に続いて2曲目のナンバーワン・ヒットが出た事で、「ノーマン・ペティ」にも注目が集まってきて、面白く無い「デッカ」レーベルはクレームを付けてきて過去にお蔵入りしたバージョンを「バディ・ホリー」としてリリースしたんだけどヒットしなかったんですナ。
「ザ・クリケッツ」って名前は契約問題で出来たってな話だったでゲス。
そうそう、コノ「ザットル・ビー・・・」っていうタイトルは、「ジョン・フォード」監督、「ジョン・ウェイン」主演の映画の、
「THE SEARCHERS」1956年(邦題「捜索者」)

をドラマーの、
「ジェリー・アリソン」

が映画を観て「ジョン・ウェイン」が「ザットル・ビー・・・」ってセリフを言って、カッチョイイ!!!ってな事で歌にしようと作った曲だそうですナ。
あと、「ザ・クリケッツ」ってバンド名も「ジェリー・アリソン」が決めたそうで、「ジェリー」はニューオリンズの「ザ・スパイダース」ってなグループが大好きで、”スパイダー(蜘蛛)”に倣って自分達も”虫”の名前をバンド名にしようって事で、手元にあった昆虫図鑑から順番に選んでいったみたいでゲス。
最初は”A”なので「アンツ」(蟻)で、次が”B”だと「ビートル」(カブト虫)が有った筈なのに、次の”C”で「クリケット」(コオロギ)を選んだんですナ。
っていうのも、彼等の住んでいるラボックって所は一面草原だらけで、バンド練習を納屋で演っていてテープ・レコーディングなんかしていると、何か雑音が入っていて何だろう?て調べてみたらコオロギだったんでゲス。
んで、そんなところから「ザ・クリケッツ」にしたとの事ですナ。
さてさて、「ボブ・シール」は以降「ザ・クリケッツ」、「バディ・ホリー」っていう2つの名義の”二毛作システム”ってのを考え出して、「ノーマン・ペティ・スタジオ」でレコーディングした曲を、「ザ・クリケッツ」と「バディ・ホリー」に振り分けて、次々にリリースしていったんでゲス。
んで、「バディ・ホリー」名義第1弾で選ばれた曲は、
「WORDS OF LOVE」
で、次は「ザ・クリケッツ」名義第2弾で、「ノーマン・ペティ・スタジオ」に大勢の若いアーティストが集まって来て、ソノ中に、
「ソニー・ウエスト」

っていう若者がいて、彼もデモ・テープを作っていたんですナ。
曲は、
「ALL MY LOVE」
で、「ソニー・ウエスト」は自分でレコードにしてリリースしようと考えていたんだけど、「ノーマン・ペティ」がコノ曲を気に入って「バディ・ホリー」に唄わせた方がイイとなって、結果「ザ・クリケッツ」第2弾としてリリースされて、タイトルも変更されて、
「OH, BOY」
となって、11月「ポップ・チャート」10位、「リズムンブルーズ・チャート」13位迄上がって、もうこうなるとリリースするレコードがチャートに沢山入ってノリノリ状態になっていったんでゲス。
「オー・ボーイ」のB面は”「ボ・ディドリー」ビート”を使った、
「NOT FADE AWAY」
で、「ジェリー・アリソン」はドラムの代わりに”段ボール箱”を叩いていますナ。
前回Upした「パーティー・ドール」の時の”アレ”でゲス。
そうそう、先出の「オー・ボーイ」がチャート・インする2週間前に「バディ・ホリー」名義(もうネ、コノ辺りになってくるとゴチャゴチャで?でゲス。)の曲がチャート・インしましたナ。
「PEGGY SUE」
で、「ポップ・チャート」3位、「リズムンブルーズ・チャート」2位の大ヒットでゲス。
まぁ何といっても「ジェリー・アリソン」のドラムでしょ。
いやぁ「ジェリー・アリソン」って人はアイデア・マンですナ。
どうやら、
「ジェイ・P・モーガン」

のヒット曲の、
「DOWN」
から拝借したと本人が言ってたでゲス。
なぁるほど、”ネタ”っていうのは至る所に眠っている訳で、後は掘り起こし如何ってところですナ。
コノ後も「ザ・クリケッツ」、「バディ・ホリー」共にレコードをリリースしていってヒットを出し続けるんでゲス。
さて、今回はココ迄ですヨ。
続きは次回にネ。
では、では。



(左から「ノーマン・ペティ」、「ボブ・シール」、「バディ・ホリー」)
「PARTY DOLL」
が、「ポップ・チャート」1位になって、遂に「ノーマン・ペティ・スタジオ」からナンバーワン・ヒットが出たところ迄Upしましたナ。
「ザ・リズム・オーキッズ」が、先輩格であるところの「バディ・ホリー」や「ロイ・オービソン」を差し置いて大ヒットして早くスターになっちゃったでゲス。
丁度ソノ頃「バディ・ホリー」達は”リード・ギター”の、
「ソニー・カーティス」

が、バンドを脱退したんですナ。
そんなんで「バディ・ホリー」は色々なスタイルを研究するんでゲス。
先ずは、
「チャック・ベリー」

「BROWN EYED HANDSOME MAN」
を、
とか、
「ボ・ディドリー」

「BO DIDDLEY」
を、
ってな具合で演ってみたりして、色々と頑張ってみるんですナ。
んで、2枚シングル盤をリリースするんだけど、全くヒットしないんでゲス。
遂に1957年1月「デッカ」レーベルから契約を打ち切る話が持ち上がるんですナ。
以前”「エルヴィス」登場の影響と波及 (パート2)”のところでUpした、
”「バディ・ホリー」が契約問題で揉める”
ってところに繋がるんでゲス。
何が”問題”なのかというと「デッカ」レーベル側は、
”1956年夏にレコーディングしたお蔵入りした曲を、向こう6年間は新録もしてはならない。”
っていうモノで、「ホリー」側としちゃぁ何とか新録でリリースしたいと悩んでいたんですナ。
”ソコ”で助け舟を出した人がいて、「デッカ」レーベルの兄弟レーベルの「コーラル」レーベル社長の、
「ボブ・シール」

で、彼曰く、
「以前に契約したのはバディ個人だから、今度はグループでリリースすればイイだろ。 早速グループ名を考えて・・・。」
ってなアイデアを出したんでゲス。
んで、
「ザ・クリケッツ」

っていうグループ名で、WW2後「コーラル」レーベルの管理下にあった「ブランズウィック」レーベルから再録してリリースした曲が、
「THAT’LL BE THE DAY」
で、唄っているのも「バディ・ホリー」だしバックも何にも変わってないんだけど、「デッカ」レーベルと契約で揉めたので結果こういう事になったんですナ。
んでも、ナッシュヴィルの「ブラッドリー・スタジオ」バージョンよりもイイ仕上がりになっているのはプロデューサー「ノーマン・ペティ」の助言があったのかもなぁ。
1957年8月にチャート登場して、見事「ポップ・チャート」1位を獲得して、「リズムンブルーズ・チャート」でも2位ってな大ヒットだったでゲス。
「ノーマン・ペティ・スタジオ」から「パーティー・ドール」に続いて2曲目のナンバーワン・ヒットが出た事で、「ノーマン・ペティ」にも注目が集まってきて、面白く無い「デッカ」レーベルはクレームを付けてきて過去にお蔵入りしたバージョンを「バディ・ホリー」としてリリースしたんだけどヒットしなかったんですナ。
「ザ・クリケッツ」って名前は契約問題で出来たってな話だったでゲス。
そうそう、コノ「ザットル・ビー・・・」っていうタイトルは、「ジョン・フォード」監督、「ジョン・ウェイン」主演の映画の、
「THE SEARCHERS」1956年(邦題「捜索者」)

をドラマーの、
「ジェリー・アリソン」

が映画を観て「ジョン・ウェイン」が「ザットル・ビー・・・」ってセリフを言って、カッチョイイ!!!ってな事で歌にしようと作った曲だそうですナ。
あと、「ザ・クリケッツ」ってバンド名も「ジェリー・アリソン」が決めたそうで、「ジェリー」はニューオリンズの「ザ・スパイダース」ってなグループが大好きで、”スパイダー(蜘蛛)”に倣って自分達も”虫”の名前をバンド名にしようって事で、手元にあった昆虫図鑑から順番に選んでいったみたいでゲス。
最初は”A”なので「アンツ」(蟻)で、次が”B”だと「ビートル」(カブト虫)が有った筈なのに、次の”C”で「クリケット」(コオロギ)を選んだんですナ。
っていうのも、彼等の住んでいるラボックって所は一面草原だらけで、バンド練習を納屋で演っていてテープ・レコーディングなんかしていると、何か雑音が入っていて何だろう?て調べてみたらコオロギだったんでゲス。
んで、そんなところから「ザ・クリケッツ」にしたとの事ですナ。
さてさて、「ボブ・シール」は以降「ザ・クリケッツ」、「バディ・ホリー」っていう2つの名義の”二毛作システム”ってのを考え出して、「ノーマン・ペティ・スタジオ」でレコーディングした曲を、「ザ・クリケッツ」と「バディ・ホリー」に振り分けて、次々にリリースしていったんでゲス。
んで、「バディ・ホリー」名義第1弾で選ばれた曲は、
「WORDS OF LOVE」
で、次は「ザ・クリケッツ」名義第2弾で、「ノーマン・ペティ・スタジオ」に大勢の若いアーティストが集まって来て、ソノ中に、
「ソニー・ウエスト」

っていう若者がいて、彼もデモ・テープを作っていたんですナ。
曲は、
「ALL MY LOVE」
で、「ソニー・ウエスト」は自分でレコードにしてリリースしようと考えていたんだけど、「ノーマン・ペティ」がコノ曲を気に入って「バディ・ホリー」に唄わせた方がイイとなって、結果「ザ・クリケッツ」第2弾としてリリースされて、タイトルも変更されて、
「OH, BOY」
となって、11月「ポップ・チャート」10位、「リズムンブルーズ・チャート」13位迄上がって、もうこうなるとリリースするレコードがチャートに沢山入ってノリノリ状態になっていったんでゲス。
「オー・ボーイ」のB面は”「ボ・ディドリー」ビート”を使った、
「NOT FADE AWAY」
で、「ジェリー・アリソン」はドラムの代わりに”段ボール箱”を叩いていますナ。
前回Upした「パーティー・ドール」の時の”アレ”でゲス。
そうそう、先出の「オー・ボーイ」がチャート・インする2週間前に「バディ・ホリー」名義(もうネ、コノ辺りになってくるとゴチャゴチャで?でゲス。)の曲がチャート・インしましたナ。
「PEGGY SUE」
で、「ポップ・チャート」3位、「リズムンブルーズ・チャート」2位の大ヒットでゲス。
まぁ何といっても「ジェリー・アリソン」のドラムでしょ。
いやぁ「ジェリー・アリソン」って人はアイデア・マンですナ。
どうやら、
「ジェイ・P・モーガン」

のヒット曲の、
「DOWN」
から拝借したと本人が言ってたでゲス。
なぁるほど、”ネタ”っていうのは至る所に眠っている訳で、後は掘り起こし如何ってところですナ。
コノ後も「ザ・クリケッツ」、「バディ・ホリー」共にレコードをリリースしていってヒットを出し続けるんでゲス。
さて、今回はココ迄ですヨ。
続きは次回にネ。
では、では。



(左から「ノーマン・ペティ」、「ボブ・シール」、「バディ・ホリー」)

2023年6月20日 21時24分58秒 (Tue)
「エルヴィス」登場の影響と波及 (パート4)
ニュー・メキシコ州にクロービスってな町があって、”ソコ”にメンフィスの「サン」レーベルの「サム・フィリップス」的な存在の”レコード・プロデューサー”、
「ノーマン・ペティ」

から話を始めるとしますナ。
クロービスはナッシュヴィルから西に1,500km位かなぁ、「バディ・ホリー」の故郷ラボックから更に100km位西にある所なんだけど、”ココ”出身の「ノーマン・ペティ」は地元のラジオ局で”アナウンサー”と”エンジニア”をしていたんでゲス。
以前ダラスのレコーディング・スタジオで働いていた事もあって、自宅にスタジオを建てたんですナ。
んで、”ソコ”でレコーディングしたのが、
「MOOD INDIGO」
で、奥さん達と組んだ、
「ザ・ノーマン・ペティ・トリオ」

でリリースしたところ、1954年に「ポップ・チャート」14位と大ヒットして、入ってきた印税をスタジオの拡張費に使って本格的なスタジオ経営に乗り出したんでゲス。
1956年になると「ロックンロール」のブームが起きて地元の若者達が沢山押しかける様になるんですナ。
そんな中に「北テキサス大学」の学生バンドがあって、グループ名を、
「ザ・ウインク・ウエスターナーズ」

っていって、既にデモ・レコードを1枚作っていて、改めて本格的にレコーディングし直したいって事でスタジオにやって来たんでゲス。
”リード・シンガー”と”リード・ギター”は、
「ロイ・オービソン」

で、当時は「北テキサス大学」の学生だったんですナ。
「オービソン」は学内の友達が演っていた曲を気に入って自分に貰えないか頼んだところ快諾してくれて「オービソン」達の曲として、「コロンビア」レーベルの「ドン・ロー」に送ろうって事でデモ・レコードを作ったんでゲス。
そうそう、因みに「北テキサス大学」にゃぁ、年上なんだけど、
「パット・ブーン」

が通っていて、「北テキサス大学」ってのは有名ミュージシャンが結構出ているところで、「ザ・ボビー・フラー・フォー」の、
「ボビー・フラー」

や、「ザ・イーグルス」のドラマーの、
「ドン・ヘンリー」

や、
「ノラ・ジョーンズ」

も、「ロイ・オービソン」や「パット・ブーン」の後輩なんですナ。
話は戻って「オービソン」達が学友から譲って貰ってレコーディングした曲の事なんだけど、「ドン・ロー」に送ったでしょ、ソノ曲を自分の担当のバンドに演らせて「オービソン」達とは契約しなかったんでゲス。
バンド名は、
「シド・キング & ザ・ファイヴ・ストリングス」

で、曲は、
「OOBY DOOBY」
ですヨ。
イイ感じの曲だけど、ヒットしなかったでゲス。
自分の楽曲を取られた「オービソン」達は「ノーマン・ペティ」のスタジオにやって来て、自分達で再びレコーディングし直そうとした訳ですナ。
バンド名も、
「ザ・ティーン・キングス」

って変えて2度目の「ウービー・ドゥービー」をレコーディングしたんでゲス。
マイナー・レーベルからリリースはされたんだけど、ヒットしなかったですナ。
バンド活動を続けていた「オービソン」達のところに「西テキサス大学」の学生バンドがやって来て、何処でレコーディングしたのか尋ねられたので「ノーマン・ペティ・スタジオ」を紹介したんでゲス。
教えてもらった彼等は早速「ノーマン・ペティ・スタジオ」に行ってレコーディングするんですナ。
バンド名は、
「ザ・リズム・オーキッズ」
っていって、2人の”リード・シンガー”が在籍していて、レコーディングしたA面を唄っていたのが、
「ジミー・ボーエン」

で、曲は、
「I'M STICKING WITH YOU」
もう1人の”リード・シンガー”でB面は、
「バディ・ノックス」

で、曲は、
「PARTY DOLL」
で、レコーディングは1956年4月で、当初はマイナー・レーベルからのリリースだったんだけど、地元の友達がラジオDJをしていて、ニューヨークに出来たばかりのレーベルにレコードを送ったんだけど、”ソコ”の社長は、
「ジョージ・ゴールドナー」

って人物なんだけど、彼はギャンブルが大好きでレーベル名を「ルーレット」にして、1957年にコノ「ルーレット」レーベルから再リリースしたところ、両面ヒットになって、特に「バディ・ノックス」の「パーティー・・・」は「ポップ・チャート」1位、「リズムンブルーズ・チャート」3位ってな大ヒットだったでゲス。
遂に「ノーマン・ペティ・スタジオ」から”ナンバーワン・ヒット”が出たんですナ。
「ジミー・ボーエン」の「アイム・スティッキング・・・」も「ポップ・チャート」14位、「リズムンブルーズ・チャート」9位っていう両面共物凄いヒットだったでゲス。
ところで、「パーティー・・・」のドラム・サウンドって変わってるでしょ。
”スネア・ドラム”じゃぁないんですヨ。
実は、
”段ボール箱”
なんでゲス。
段ボール箱の中にマイクを入れて、箱の上にタオルを敷いて叩いた音を拾ったって訳ですナ。
こういうのが”自宅録音”ならではで、こういったアイデアで演ろうとしても大きなスタジオじゃぁ簡単に却下されちゃうでゲス。
「サン」レーベルの「サム・フィリップス」も「ノーマン・ペティ」も”レコーディング技師”から”プロデューサー”になった人なので、そういった経歴がモノをいっているんですナ。
この様な人達が支えてきたのが、
”「ロックンロール」の時代”
だったって事でもあったんでゲス。
今回はココ迄ですナ。
んじゃぁ、又。






「ノーマン・ペティ」

から話を始めるとしますナ。
クロービスはナッシュヴィルから西に1,500km位かなぁ、「バディ・ホリー」の故郷ラボックから更に100km位西にある所なんだけど、”ココ”出身の「ノーマン・ペティ」は地元のラジオ局で”アナウンサー”と”エンジニア”をしていたんでゲス。
以前ダラスのレコーディング・スタジオで働いていた事もあって、自宅にスタジオを建てたんですナ。
んで、”ソコ”でレコーディングしたのが、
「MOOD INDIGO」
で、奥さん達と組んだ、
「ザ・ノーマン・ペティ・トリオ」

でリリースしたところ、1954年に「ポップ・チャート」14位と大ヒットして、入ってきた印税をスタジオの拡張費に使って本格的なスタジオ経営に乗り出したんでゲス。
1956年になると「ロックンロール」のブームが起きて地元の若者達が沢山押しかける様になるんですナ。
そんな中に「北テキサス大学」の学生バンドがあって、グループ名を、
「ザ・ウインク・ウエスターナーズ」

っていって、既にデモ・レコードを1枚作っていて、改めて本格的にレコーディングし直したいって事でスタジオにやって来たんでゲス。
”リード・シンガー”と”リード・ギター”は、
「ロイ・オービソン」

で、当時は「北テキサス大学」の学生だったんですナ。
「オービソン」は学内の友達が演っていた曲を気に入って自分に貰えないか頼んだところ快諾してくれて「オービソン」達の曲として、「コロンビア」レーベルの「ドン・ロー」に送ろうって事でデモ・レコードを作ったんでゲス。
そうそう、因みに「北テキサス大学」にゃぁ、年上なんだけど、
「パット・ブーン」

が通っていて、「北テキサス大学」ってのは有名ミュージシャンが結構出ているところで、「ザ・ボビー・フラー・フォー」の、
「ボビー・フラー」

や、「ザ・イーグルス」のドラマーの、
「ドン・ヘンリー」

や、
「ノラ・ジョーンズ」

も、「ロイ・オービソン」や「パット・ブーン」の後輩なんですナ。
話は戻って「オービソン」達が学友から譲って貰ってレコーディングした曲の事なんだけど、「ドン・ロー」に送ったでしょ、ソノ曲を自分の担当のバンドに演らせて「オービソン」達とは契約しなかったんでゲス。
バンド名は、
「シド・キング & ザ・ファイヴ・ストリングス」

で、曲は、
「OOBY DOOBY」
ですヨ。
イイ感じの曲だけど、ヒットしなかったでゲス。
自分の楽曲を取られた「オービソン」達は「ノーマン・ペティ」のスタジオにやって来て、自分達で再びレコーディングし直そうとした訳ですナ。
バンド名も、
「ザ・ティーン・キングス」

って変えて2度目の「ウービー・ドゥービー」をレコーディングしたんでゲス。
マイナー・レーベルからリリースはされたんだけど、ヒットしなかったですナ。
バンド活動を続けていた「オービソン」達のところに「西テキサス大学」の学生バンドがやって来て、何処でレコーディングしたのか尋ねられたので「ノーマン・ペティ・スタジオ」を紹介したんでゲス。
教えてもらった彼等は早速「ノーマン・ペティ・スタジオ」に行ってレコーディングするんですナ。
バンド名は、
「ザ・リズム・オーキッズ」
っていって、2人の”リード・シンガー”が在籍していて、レコーディングしたA面を唄っていたのが、
「ジミー・ボーエン」

で、曲は、
「I'M STICKING WITH YOU」
もう1人の”リード・シンガー”でB面は、
「バディ・ノックス」

で、曲は、
「PARTY DOLL」
で、レコーディングは1956年4月で、当初はマイナー・レーベルからのリリースだったんだけど、地元の友達がラジオDJをしていて、ニューヨークに出来たばかりのレーベルにレコードを送ったんだけど、”ソコ”の社長は、
「ジョージ・ゴールドナー」

って人物なんだけど、彼はギャンブルが大好きでレーベル名を「ルーレット」にして、1957年にコノ「ルーレット」レーベルから再リリースしたところ、両面ヒットになって、特に「バディ・ノックス」の「パーティー・・・」は「ポップ・チャート」1位、「リズムンブルーズ・チャート」3位ってな大ヒットだったでゲス。
遂に「ノーマン・ペティ・スタジオ」から”ナンバーワン・ヒット”が出たんですナ。
「ジミー・ボーエン」の「アイム・スティッキング・・・」も「ポップ・チャート」14位、「リズムンブルーズ・チャート」9位っていう両面共物凄いヒットだったでゲス。
ところで、「パーティー・・・」のドラム・サウンドって変わってるでしょ。
”スネア・ドラム”じゃぁないんですヨ。
実は、
”段ボール箱”
なんでゲス。
段ボール箱の中にマイクを入れて、箱の上にタオルを敷いて叩いた音を拾ったって訳ですナ。
こういうのが”自宅録音”ならではで、こういったアイデアで演ろうとしても大きなスタジオじゃぁ簡単に却下されちゃうでゲス。
「サン」レーベルの「サム・フィリップス」も「ノーマン・ペティ」も”レコーディング技師”から”プロデューサー”になった人なので、そういった経歴がモノをいっているんですナ。
この様な人達が支えてきたのが、
”「ロックンロール」の時代”
だったって事でもあったんでゲス。
今回はココ迄ですナ。
んじゃぁ、又。






2023年6月9日 21時24分34秒 (Fri)
「エルヴィス」登場の影響と波及 (パート3)
今日は思いのほか仕事が進んで、続いて行う作業に必要なパーツが足らなかったので少し早く仕事を終わったでゲス。
なのでコチラをUpする時間が出来ましたナ。
早速始めましょう!!!
「コロンビア」レーベルのプロデューサー「ドン・ロー」は「ジョニー・ホートン」や「マーティー・ロビンス」を担当していたんだけど、彼のところへ”兄弟デュオ”の話が持ち込まれるんでゲス。
持って来たのはギタリストの、
「チェット・アトキンス」

で、1955年11月の事でゲス。
場所は「キャッスル・スタジオ」で、レコーディングしたのは兄が18歳、弟が16歳の若い兄弟ですナ。
兄弟の名前は「ドン」と「フィル」でゲス。
そう、
「ジ・エヴァリー・ブラザーズ」

「KEEP A’ LOVIN’ ME」
で、「ドン・ロー」はコノ曲がヒットしなかったので以降「ザ・エヴァリー・・・」と契約をしなかったでゲス。
当時「ドン・ロー」は、
「ザ・コリンズ・キッズ」

を担当していて、”兄弟デュオ”(姉弟)はコチラがあるから・・・ってな事らしいですナ。(「ザ・コリンズ・・・」はもう少し後のデビューじゃぁなかったかなぁ?)
「ザ・コリンズ・・・」は動画が沢山Upされているので1つUpしてみますネ。
まぁ、「ラリー」(弟)はノリノリだし「ロリー」(姉)は可愛いから、”見た目”からもコチラを選んだのも無理もないともいえるでゲス。
んで、「ジ・エヴァリー・・・」はココから2年間の沈黙を経て大々的に再デビューするんだけど、コノ話は又別の機会にしますネ。
さて、「コロンビア」レーベルの「ドン・ロー」に続いて、前回登場した「キャピトル」レーベルの「ケン・ネルソン」のもとにも沢山のアーティストから売り込みがありましたナ。
そんな中に、気に入らなかったけどB面の曲はイイって事で、自分が担当している歌手に唄わせようと「ブラッドリー・スタジオ」に連れて行ってレコーディングしたんでゲス。
”ソレ”が、
「ソニー・ジェームス」

の、
「YOUNG LOVE」
で、大ヒットしましたナ。
「ポップ・チャート」2位、「カントリーミュージック・チャート」1位、「リズムンブルーズ・チャート」3位ってな、
”3部門制覇”
だったので、「ケン・ネルソン」にとっちゃぁ2枚目の”3部門制覇”の曲になったんでゲス。
こんな感じで大ヒットを連発する「ブラッドリー・スタジオ」の人気は段々高まっていって、コレからミュージシャンの、
”ナッシュヴィル詣”
ってのが始まるんですナ。
1956年にゃぁ「ビー・バップ・ア・ルーラ」、「ヤング・ラヴ」っていう大ヒットも出たし、まぁヒットこそ無かったけど後に”「ロックンロール」スター”となった「バディ・ホリー」、「ジョニー・バーネット」、「ブレンダ・リー」がコノ時期にレコーディングしていたって事でゲス。
えっと、「ケン・ネルソン」繋がりで、「キャピトル」レーベルの話をしますネ。
「ワンダ・ジャクソン」

の登場でゲス。
最初は「デッカ」レーベルだった彼女のデビュー曲は、
「IF YOU KNEW WHAT I KNOW」
ってな純粋な「カントリー・ミュージック」を唄っていたんだけど、「キャピトル」レーベルに移籍して”「ロックンロール」路線”に変わって、
「I GOTTA KNOW」
を1956年6月に出来たばかりの、
「キャピトル・タワー」

でのレコーディングでしたナ。
当時「キャピトル」レーベルにゃぁ、
「ジョー・メィフィス」

や、若き日の、
「バック・オーエンス」

等のミュージシャンがいて、コノ「アイ・ゴッタ・・・」も、リード・ギター「ジョー・メィフィス」、サイド・ギター「バック・オーエンス」が演っているでゲス。
あと、
「ジェリー・リード」

も、コノ56年に「キャピトル」レーベルからデビューしていますナ。
コノ曲のギターは「グレイディ・マーティン」だそうでゲス。
そんな「ジェリー・リード」が「ポップ・チャート」に登場するのは12年後の1968年の事ですナ。
あとネ、
「スキーツ・マクドナルド」

ってな”大御所”がいて、41歳だったかナ。
「ロックンロール」に挑戦しているでゲス。
「YOU OUGHTA SEE GRANDMA ROCK」
でしたナ。
コノ曲を取り上げたのは、バックでギターを弾いていた人物をUpしたかったからでゲス。
弾いていたのは、
「エディ・コクラン」

でしたナ。
ヒット曲が出る前は沢山のセッションに参加していたでゲス。
以上、続きは次回にて。
では、では。








なのでコチラをUpする時間が出来ましたナ。
早速始めましょう!!!
「コロンビア」レーベルのプロデューサー「ドン・ロー」は「ジョニー・ホートン」や「マーティー・ロビンス」を担当していたんだけど、彼のところへ”兄弟デュオ”の話が持ち込まれるんでゲス。
持って来たのはギタリストの、
「チェット・アトキンス」

で、1955年11月の事でゲス。
場所は「キャッスル・スタジオ」で、レコーディングしたのは兄が18歳、弟が16歳の若い兄弟ですナ。
兄弟の名前は「ドン」と「フィル」でゲス。
そう、
「ジ・エヴァリー・ブラザーズ」

「KEEP A’ LOVIN’ ME」
で、「ドン・ロー」はコノ曲がヒットしなかったので以降「ザ・エヴァリー・・・」と契約をしなかったでゲス。
当時「ドン・ロー」は、
「ザ・コリンズ・キッズ」

を担当していて、”兄弟デュオ”(姉弟)はコチラがあるから・・・ってな事らしいですナ。(「ザ・コリンズ・・・」はもう少し後のデビューじゃぁなかったかなぁ?)
「ザ・コリンズ・・・」は動画が沢山Upされているので1つUpしてみますネ。
まぁ、「ラリー」(弟)はノリノリだし「ロリー」(姉)は可愛いから、”見た目”からもコチラを選んだのも無理もないともいえるでゲス。
んで、「ジ・エヴァリー・・・」はココから2年間の沈黙を経て大々的に再デビューするんだけど、コノ話は又別の機会にしますネ。
さて、「コロンビア」レーベルの「ドン・ロー」に続いて、前回登場した「キャピトル」レーベルの「ケン・ネルソン」のもとにも沢山のアーティストから売り込みがありましたナ。
そんな中に、気に入らなかったけどB面の曲はイイって事で、自分が担当している歌手に唄わせようと「ブラッドリー・スタジオ」に連れて行ってレコーディングしたんでゲス。
”ソレ”が、
「ソニー・ジェームス」

の、
「YOUNG LOVE」
で、大ヒットしましたナ。
「ポップ・チャート」2位、「カントリーミュージック・チャート」1位、「リズムンブルーズ・チャート」3位ってな、
”3部門制覇”
だったので、「ケン・ネルソン」にとっちゃぁ2枚目の”3部門制覇”の曲になったんでゲス。
こんな感じで大ヒットを連発する「ブラッドリー・スタジオ」の人気は段々高まっていって、コレからミュージシャンの、
”ナッシュヴィル詣”
ってのが始まるんですナ。
1956年にゃぁ「ビー・バップ・ア・ルーラ」、「ヤング・ラヴ」っていう大ヒットも出たし、まぁヒットこそ無かったけど後に”「ロックンロール」スター”となった「バディ・ホリー」、「ジョニー・バーネット」、「ブレンダ・リー」がコノ時期にレコーディングしていたって事でゲス。
えっと、「ケン・ネルソン」繋がりで、「キャピトル」レーベルの話をしますネ。
「ワンダ・ジャクソン」

の登場でゲス。
最初は「デッカ」レーベルだった彼女のデビュー曲は、
「IF YOU KNEW WHAT I KNOW」
ってな純粋な「カントリー・ミュージック」を唄っていたんだけど、「キャピトル」レーベルに移籍して”「ロックンロール」路線”に変わって、
「I GOTTA KNOW」
を1956年6月に出来たばかりの、
「キャピトル・タワー」

でのレコーディングでしたナ。
当時「キャピトル」レーベルにゃぁ、
「ジョー・メィフィス」

や、若き日の、
「バック・オーエンス」

等のミュージシャンがいて、コノ「アイ・ゴッタ・・・」も、リード・ギター「ジョー・メィフィス」、サイド・ギター「バック・オーエンス」が演っているでゲス。
あと、
「ジェリー・リード」

も、コノ56年に「キャピトル」レーベルからデビューしていますナ。
コノ曲のギターは「グレイディ・マーティン」だそうでゲス。
そんな「ジェリー・リード」が「ポップ・チャート」に登場するのは12年後の1968年の事ですナ。
あとネ、
「スキーツ・マクドナルド」

ってな”大御所”がいて、41歳だったかナ。
「ロックンロール」に挑戦しているでゲス。
「YOU OUGHTA SEE GRANDMA ROCK」
でしたナ。
コノ曲を取り上げたのは、バックでギターを弾いていた人物をUpしたかったからでゲス。
弾いていたのは、
「エディ・コクラン」

でしたナ。
ヒット曲が出る前は沢山のセッションに参加していたでゲス。
以上、続きは次回にて。
では、では。








2023年6月7日 10時48分09秒 (Wed)
「エルヴィス」登場の影響と波及 (パート2)
前回の続きでゲス。
1950年代LAで1番大きなレコード・レーベルといえば「キャピトル」レーベルなんだけど、「カントリー・ミュージック」部門の担当者は,
「ケン・ネルソン」

という人物で、彼のところにも沢山のデモ・レコードが届くんですナ。
前回「バディ・ホリー」のデモ曲を地元ラボックのディスク・ジョッキーが「デッカ」レーベルに送ったって事をUpしたんだけど、コノ「キャピトル」レーベルに送られて来たのはヴァージニア州ノーフォークからで、「ケン・ネルソン」は気に入って早速レコーディングをする事を進めて「ブラッドリー・スタジオ」とスタジオ・ミュージシャンを抑えてデモ・レコードを唄っていた、
「ジーン・ヴィンセント」

を「ブラッドリー・スタジオ」に呼んで最初のセッションをするんだけど、どうにも上手くいかなかったので「キャピトル」レーベルはバック・ミュージシャンのオーディションを大急ぎでするんでゲス。
んで、決まったメンバーでレコーディングするんですナ。

1956年5月4日ナッシュヴィル「ブラッドリー・スタジオ」において「ロックンロール」史上永遠に残る”名曲”が誕生するんでゲス。
「BEーBOPーAーLULA」
ですナ。
イヤァ、「フィードバック・エコー」がイイ!!!!!
最高だなぁ。
「ブラッドリー・スタジオ」は1954年に出来てスタジオ・エンジニアの腕が良かったので「フィードバック・エコー」の使い方が物凄く上手かったでゲス。
えっとネ、1955年9月にノーフォークで「ハンク・スノウ・オールスター・ジャンボリー・ツアー」っていう催し物があって「エルヴィス」が前座をしたステージを「ジーン・ヴィンセント」は観て、ソレ迄「カントリー・ミュージック」を演っていたんだけど「ロックンロール」に切り替えようという事になったそうですナ。
前回Upした「バディ・ホリー」も、地元テキサスのラボックに「エルヴィス」が演奏公演に来たのを観て「ロックンロール」を演ろうと思ったという話でゲス。
話は「ビー・バップ・ア・ルーラ」に戻して、「ポップ・チャート」7位、「カントリー・ミュージック・チャート」5位、「リズムンブルーズ・チャート」8位ってな、
”3部門制覇”
で、「ブルースエード・シューズ」、「ハートブレイク・ホテル」に次いで3曲目の”3部門制覇”になりましたナ。
さて、続いては「コーラル」レーベルの新人でゲス。
「ジョニー・バーネット・トリオ」

ですナ。
1956年5月7日にニューヨークで5曲レコーディングした、ソノ中のでゲス。
シングル曲としてリリースされたんだけどヒットしなかったので、”コノ手”の曲ならナッシュヴィルでのレコーディングをという事になるんですナ。
「コーラル」レーベルは「デッカ」レーベル系列なので「ブラッドリー・スタジオ」でのレコーディングとなるでゲス。
7月2日、取り上げたのは「リズムンブルーズ」のカヴァー曲で、
「タイニー・ブラッドショウ」

の、
「THE TRAIN KEPT A ROLLIN’」
を見事な「ロックンロール」に仕立てて、
となって、「グレイディ・マーティン」がギターを弾いてカッチョイイですナ。
んでも、ヒットしなかったでゲス。
そろそろ曲によっては唄以上にギターのフレーズの方が印象的な曲が段々出て来たのもコノ時代の特徴ですナ。
さて、コノ曲でギターを弾いてる「グレイディ・マーティン」は、こういったフレーズが得意で、他にも何曲か演っているんだけど、ソノ中の1曲が前回登場した、
「ジョニー・ホートン」

の、「コロンビア」レーベル移籍後3曲目のヒットの、
「I'M COMING HOME」
で、どんな印象的なフレーズを弾くかって事をコノ頃のギタリストは日夜考えていた時代だった様でゲス。
「エルヴィス」の活躍を横目で見ながら活動を続けている「ジョニー・バーネット」同様、「バディ・ホリー」も自宅で沢山の曲を作っていて、2度目のナッシュヴィル・セッションに漕ぎ着けるんですナ。

ソノ中にあったのが、
「THAT'LL BE THE DAY」
で、今回のレコーディングにはサポート・メンバー無しで自分のバンドでのレコーディングだったんだけど、5曲位演って全曲お蔵入りになって、コノ事が後に契約問題で揉める事になるんでゲス。
コノ時の話は今回は飛ばして、11月にも3回目のレコーディングをして2枚シングル盤をリリースするんだけど、いずれも不発に終わって、又故郷に戻ってデモ作りをする毎日へと戻ったんでしたナ。
そんな「バディ・ホリー」が在籍していた「デッカ」レーベルで当時ナンバーワン・シンガーは、
「ウェッブ・ピアス」

で、当時リリースしたレコードはどれも「カントリーミュージック」チャートでヒットの連発だったでゲス。
そんな「ウェッブ・ピアス」は流行に敏感で、自分も”「ロックンロール」調”の曲を演ってみようってな事になって、リリースした曲が、
「TEENAGE BOOGIE」
なんだけど、バック・コーラスは「ザ・ジョーダネアーズ」で「ウェッブ・ピアス」は当時35歳でしたナ。
「デッカ」レーベルで「ウェッブ・ピアス」35歳と同じ頃、10歳の少女が登場するんでゲス。
「ブレンダ・リー」

で、
「JAMBALAYA (ON THE BAYOU)」
でゲス。
ヒットこそしなかったんだけど、ソノ後に大物になっていく最初が1956年だったんですナ。
バック・ミュージシャンは「グレイディ・マーティン」をはじめとする”ナッシュヴィルAチーム”でゲス。
ウ~ン、以前4月3日のブログの、
”1950年代の「ELVIS」のレコーディングの話 (パート6)”
の時にUpした、「ハートブレイク・ホテル」のデモ・テープで唄っていた、
「グレン・リーヴス」

って人がいたんだけど、「エルヴィス」のマネージャー「トム・パーカー」大佐は、当初「アトランティック」レーベルに「エルビス」を売り込んだけど、要らないって断ったって事は以前にUpしたでしょ。
んでも、「エルビス」がこんなに売れるとは思わなくって、苦々しく思った「リズムンブルーズ」専門だった「アトランティック」レーベルも「カントリー・ミュージック」部門を開始するんでゲス。
ソノ第1号が、先出の「グレン・リーヴス」で、更に「ハートブレイク・・・」を作った「メイ・アクストン」と「トミー・ダーデン」に新曲を作らせて、ソノ曲をレコーディングしましたナ。
「ROCKIN' CANTRY STYLE」
系列の「アトコ」レーベルのB面で、「ハートブレイク・・・」を作った3人は他でも沢山曲を作ったんだけど、チャート・インしたのは2曲位で、他は全くヒットしなかったでゲス。
やっぱ、
”「ハートブレイク・・・」は「エルヴィス」が唄ってこそ”
ですナ。
ハイ、今回はココ迄でゲス。
んじゃぁ、次回迄。









1950年代LAで1番大きなレコード・レーベルといえば「キャピトル」レーベルなんだけど、「カントリー・ミュージック」部門の担当者は,
「ケン・ネルソン」

という人物で、彼のところにも沢山のデモ・レコードが届くんですナ。
前回「バディ・ホリー」のデモ曲を地元ラボックのディスク・ジョッキーが「デッカ」レーベルに送ったって事をUpしたんだけど、コノ「キャピトル」レーベルに送られて来たのはヴァージニア州ノーフォークからで、「ケン・ネルソン」は気に入って早速レコーディングをする事を進めて「ブラッドリー・スタジオ」とスタジオ・ミュージシャンを抑えてデモ・レコードを唄っていた、
「ジーン・ヴィンセント」

を「ブラッドリー・スタジオ」に呼んで最初のセッションをするんだけど、どうにも上手くいかなかったので「キャピトル」レーベルはバック・ミュージシャンのオーディションを大急ぎでするんでゲス。
んで、決まったメンバーでレコーディングするんですナ。

1956年5月4日ナッシュヴィル「ブラッドリー・スタジオ」において「ロックンロール」史上永遠に残る”名曲”が誕生するんでゲス。
「BEーBOPーAーLULA」
ですナ。
イヤァ、「フィードバック・エコー」がイイ!!!!!
最高だなぁ。
「ブラッドリー・スタジオ」は1954年に出来てスタジオ・エンジニアの腕が良かったので「フィードバック・エコー」の使い方が物凄く上手かったでゲス。
えっとネ、1955年9月にノーフォークで「ハンク・スノウ・オールスター・ジャンボリー・ツアー」っていう催し物があって「エルヴィス」が前座をしたステージを「ジーン・ヴィンセント」は観て、ソレ迄「カントリー・ミュージック」を演っていたんだけど「ロックンロール」に切り替えようという事になったそうですナ。
前回Upした「バディ・ホリー」も、地元テキサスのラボックに「エルヴィス」が演奏公演に来たのを観て「ロックンロール」を演ろうと思ったという話でゲス。
話は「ビー・バップ・ア・ルーラ」に戻して、「ポップ・チャート」7位、「カントリー・ミュージック・チャート」5位、「リズムンブルーズ・チャート」8位ってな、
”3部門制覇”
で、「ブルースエード・シューズ」、「ハートブレイク・ホテル」に次いで3曲目の”3部門制覇”になりましたナ。
さて、続いては「コーラル」レーベルの新人でゲス。
「ジョニー・バーネット・トリオ」

ですナ。
「TEAR IT UP」
1956年5月7日にニューヨークで5曲レコーディングした、ソノ中のでゲス。
シングル曲としてリリースされたんだけどヒットしなかったので、”コノ手”の曲ならナッシュヴィルでのレコーディングをという事になるんですナ。
「コーラル」レーベルは「デッカ」レーベル系列なので「ブラッドリー・スタジオ」でのレコーディングとなるでゲス。
7月2日、取り上げたのは「リズムンブルーズ」のカヴァー曲で、
「タイニー・ブラッドショウ」

の、
「THE TRAIN KEPT A ROLLIN’」
となって、「グレイディ・マーティン」がギターを弾いてカッチョイイですナ。
んでも、ヒットしなかったでゲス。
そろそろ曲によっては唄以上にギターのフレーズの方が印象的な曲が段々出て来たのもコノ時代の特徴ですナ。
さて、コノ曲でギターを弾いてる「グレイディ・マーティン」は、こういったフレーズが得意で、他にも何曲か演っているんだけど、ソノ中の1曲が前回登場した、
「ジョニー・ホートン」

の、「コロンビア」レーベル移籍後3曲目のヒットの、
「I'M COMING HOME」
「エルヴィス」の活躍を横目で見ながら活動を続けている「ジョニー・バーネット」同様、「バディ・ホリー」も自宅で沢山の曲を作っていて、2度目のナッシュヴィル・セッションに漕ぎ着けるんですナ。

ソノ中にあったのが、
「THAT'LL BE THE DAY」
で、今回のレコーディングにはサポート・メンバー無しで自分のバンドでのレコーディングだったんだけど、5曲位演って全曲お蔵入りになって、コノ事が後に契約問題で揉める事になるんでゲス。
コノ時の話は今回は飛ばして、11月にも3回目のレコーディングをして2枚シングル盤をリリースするんだけど、いずれも不発に終わって、又故郷に戻ってデモ作りをする毎日へと戻ったんでしたナ。
そんな「バディ・ホリー」が在籍していた「デッカ」レーベルで当時ナンバーワン・シンガーは、
「ウェッブ・ピアス」

で、当時リリースしたレコードはどれも「カントリーミュージック」チャートでヒットの連発だったでゲス。
そんな「ウェッブ・ピアス」は流行に敏感で、自分も”「ロックンロール」調”の曲を演ってみようってな事になって、リリースした曲が、
「TEENAGE BOOGIE」
なんだけど、バック・コーラスは「ザ・ジョーダネアーズ」で「ウェッブ・ピアス」は当時35歳でしたナ。
「デッカ」レーベルで「ウェッブ・ピアス」35歳と同じ頃、10歳の少女が登場するんでゲス。
「ブレンダ・リー」

で、
「JAMBALAYA (ON THE BAYOU)」
でゲス。
ヒットこそしなかったんだけど、ソノ後に大物になっていく最初が1956年だったんですナ。
バック・ミュージシャンは「グレイディ・マーティン」をはじめとする”ナッシュヴィルAチーム”でゲス。
ウ~ン、以前4月3日のブログの、
”1950年代の「ELVIS」のレコーディングの話 (パート6)”
の時にUpした、「ハートブレイク・ホテル」のデモ・テープで唄っていた、
「グレン・リーヴス」

って人がいたんだけど、「エルヴィス」のマネージャー「トム・パーカー」大佐は、当初「アトランティック」レーベルに「エルビス」を売り込んだけど、要らないって断ったって事は以前にUpしたでしょ。
んでも、「エルビス」がこんなに売れるとは思わなくって、苦々しく思った「リズムンブルーズ」専門だった「アトランティック」レーベルも「カントリー・ミュージック」部門を開始するんでゲス。
ソノ第1号が、先出の「グレン・リーヴス」で、更に「ハートブレイク・・・」を作った「メイ・アクストン」と「トミー・ダーデン」に新曲を作らせて、ソノ曲をレコーディングしましたナ。
「ROCKIN' CANTRY STYLE」
系列の「アトコ」レーベルのB面で、「ハートブレイク・・・」を作った3人は他でも沢山曲を作ったんだけど、チャート・インしたのは2曲位で、他は全くヒットしなかったでゲス。
やっぱ、
”「ハートブレイク・・・」は「エルヴィス」が唄ってこそ”
ですナ。
ハイ、今回はココ迄でゲス。
んじゃぁ、次回迄。









プロフィール

- 自己紹介
- WW2以降1970年代迄の”映画”、”音楽”、”ファッション”等などが大好きな、
”「BEAT」野郎”
で、特に1950年代が大好物でゲス。
岐阜で「MEMPHIS」っていうアメカジ店を2010年1月末日迄やってましたが、現在は家業をついで”製帽業”をしてますヨ。(「CA4LA」、「ポール・スチュアート」、「ザ・スコッチ・ハウス」、「コムサ・デ・モード」等より仕事を頂いているでゲス。)
他にも個人的に「MEMPHIS工房」として”帽子”製作、販売していますヨ。(コチラは出来上がり次第「作品集」のコーナーに随時Upしますのでご覧くださいませ、ませ。 詳細のお問い合わせ承りますので、お気軽にどうぞ。)
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