2023年11月 アーカイブ
2023年11月21日 21時12分21秒 (Tue)
ソノ後のナッシュヴィルの話 (パート2)
今日は月に2度の仕事休みの内の1日だったので、お袋ちゃんを連れて常滑の「めんたいパークとこなめ」に朝から行ってきたでゲス。
朝7時に家を出て途中で給油して11時頃に現地に到着して買い物を済ませて帰路に向かって15時にゃぁ家に到着しましたナ。
朝こそ寒かったものの、道中の天気も良く、楽しいドライブになったでゲス。
さて、本題にしましょうネ。
1950年代中頃のナッシュヴィルにゃぁ、
「ブレンダ・リー」

がいましたナ。
1957年にリリースした3枚目のシングル盤が漸くチャートに登場したんでゲス。
「ONE STEP AT A TIME」
で、「カントリー・ミュージック・チャート」は15位だったんだけど、「ポップ・チャート」じゃぁ43位ってな事で、あんまり振るわなかったですナ。
コノ57年「ブレンダ・リー」にゃぁもう1曲チャート入りした曲があったでゲス。
「DYNAMITE」
なんだけど、日本じゃぁコノ曲がリリースされて”ダイナマイト娘”なんて呼ばれていたけど、「ポップ・チャート」じゃぁ72位止まりだったんですナ。
ってな訳で、「ブレンダ・リー」が一般的に知られる様になったのは1960年に入ってからの事なんでゲス。
さてさて、前回Upした、
「マーティ・ロビンス」

は、1957年にナッシュヴィルからニューヨークに行ったでしょ、翌58年10月にソレ迄ニューメキシコ州クロービスをホームグラウンドにしていた、
「バディ・ホリー」

も、結婚って事もあって活動の拠点をニューヨークに移しましたナ。
以前の”バンド・サウンド”からニューヨークに行って華麗なストリングスをバックにメロディーラインを強調したサウンドに変化していったんでゲス。
「TRUE LOVE WAYS」
で、コノ曲のレコーディング・セッションじゃぁ「ポール・アンカ」の曲を演ったり「ジ・エヴァリー・ブラザーズ」のスタッフ・ライターの「ブライアント」夫妻の曲も取り上げていましたナ。
実はコノ時に演った「ブライアント」夫妻の曲ってのは「エヴァリー」兄弟が気に入らなかったって事で「バディ」に回って来た曲だったそうでゲス。
「RAINING IN MY HEART」
改めて聴き返してみると、”「エヴァリー」っぽい”曲ですナ。
んで、「バディ」にもピッタリでもありますよネ。
コノ4ヶ月後に「バディ・ホリー」は飛行機事故で亡くなるんだけど、後にフォロワーが多かったのは、こういったメロディー・タイプの曲があったからだと思うでゲス。
「ロックンロール」だけだったらアレ程の影響力は無かったと考えるのは俺だけでしょうかネ。
さて、「バディ・ホリー」のニューヨーク・レコーディングの1年後の1959年11月に「ジ・エヴァリー・・・」もニューヨークにやって来たんでゲス。
所属していた「ケイデンス」レーベル社長の、
「アーチー・ブレイヤー」

が、
「ジルベルト・ベコー」

の名曲を社長「ブレイヤー」自身が編曲してストリングスをバックに「ジ・エヴァリー・・・」にカヴァーさせたのが、
「LET IT BE ME」
ですナ。
イイ曲だなぁ。
あのネ、ニューヨークにある「ケーデンス」レーベルの社長「アーチー・ブレイヤー」ってのは、元々バンド・リーダーだった人物で、こういったサウンドのアレンジは得意なんでゲス。
あとサ、「ジ・エヴァリー・・・」が所属していた出版社は「エイカフ・ローズ」っていって、ナッシュヴィルじゃぁ一番大きくってヒットを連発していた会社ですナ。
1957年「エイカフ・ローズ」と新しく契約した、
「ドン・ギブソン」

がナッシュヴィルにやって来るんでゲス。
んで、「RCA」レーベルと契約して、「チェット・アトキンス」がプロデューサーとして担当した第1号の歌手になりましたナ。
「BLUE BLUE DAY」
で、最初は昔ながらの「カントリー・ミュージック」を唄っていた「ドン・ギブソン」は全くヒットが出なくって、ソノ頃「チェット・アトキンス」は「ジ・エヴァリー・・・」のセッションに参加していたので、
「なぁ、今はエヴァリーの時代だろ。 ああゆう曲を作ってみたらどうだろう。」
ってアドバイスしたところ「ドン・ギブソン」が作って持って来たのがコノ曲で、ヒットはしなかったんだけど、「チェット・アトキンス」と「ドン・ギブソン」は”コノ”路線に手応えを感じて”続編”を作ろうって事になったんでゲス。
出来た新曲は、
「OH LONESOME ME」
で、「カントリー・ミュージック・チャート」1位、「ポップ・チャート」7位ってな大ヒットになりましたナ。
ギターは「チェット・アトキンス」で、プロデューサーとしても初めてのヒット曲ってな事でゲス。
コーラスは「ザ・ジョーダネアーズ」ですナ。
実はコノ曲って、
”ナッシュヴィルのレコーディング史上初めての音が録音されている”
んでゲス。
ミックスが低いから判り難いんだけど、シンコペーションの”バスドラム”が入っているんですヨ。
「リズムンブルーズ」じゃぁ何曲もあったんだけど、「カントリー・ミュージック」で使われたのはコノ曲が初めてでゲス。
あと、「ドン・ギブソン」は「オー・ロンサム・・・」よりもプッシュしたかった曲があったんだけど、レコーディング・スタッフが反対してB面にされちゃったんですナ。
”ソノ”B面の曲ってのが、
「I CAN’T STOP LOVIN’ YOU」(邦題「愛さずにはいられない」)
で、「ポップ・チャート」は81位って低かったんだけど「カントリー・ミュージック・チャート」だと7位でしたヨ。
後に、
「レイ・チャールズ」

によって世界的な大ヒットになるんだけど、”ソレ”は4年後の事でゲス。
「ドン・ギブソン」もコノ曲を作った時にゃぁコレ程の世界的大ヒットになるとは想像してなかったと思いますナ。
「愛さずには・・・」がヒットした事で以前にリリースした先出の「ブルー・ブルー・デイ」もコノ後「カントリー・ミュージック・チャート」1位、「ポップ・チャート」20位になったんでゲス。
ココから「ドン・ギブソン」はヒット・チャートの常連になって次々にヒットをかっ飛ばすんですナ。
今回はココ迄でゲス。
んじゃぁ、又。






朝7時に家を出て途中で給油して11時頃に現地に到着して買い物を済ませて帰路に向かって15時にゃぁ家に到着しましたナ。
朝こそ寒かったものの、道中の天気も良く、楽しいドライブになったでゲス。
さて、本題にしましょうネ。
1950年代中頃のナッシュヴィルにゃぁ、
「ブレンダ・リー」

がいましたナ。
1957年にリリースした3枚目のシングル盤が漸くチャートに登場したんでゲス。
「ONE STEP AT A TIME」
で、「カントリー・ミュージック・チャート」は15位だったんだけど、「ポップ・チャート」じゃぁ43位ってな事で、あんまり振るわなかったですナ。
コノ57年「ブレンダ・リー」にゃぁもう1曲チャート入りした曲があったでゲス。
「DYNAMITE」
なんだけど、日本じゃぁコノ曲がリリースされて”ダイナマイト娘”なんて呼ばれていたけど、「ポップ・チャート」じゃぁ72位止まりだったんですナ。
ってな訳で、「ブレンダ・リー」が一般的に知られる様になったのは1960年に入ってからの事なんでゲス。
さてさて、前回Upした、
「マーティ・ロビンス」

は、1957年にナッシュヴィルからニューヨークに行ったでしょ、翌58年10月にソレ迄ニューメキシコ州クロービスをホームグラウンドにしていた、
「バディ・ホリー」

も、結婚って事もあって活動の拠点をニューヨークに移しましたナ。
以前の”バンド・サウンド”からニューヨークに行って華麗なストリングスをバックにメロディーラインを強調したサウンドに変化していったんでゲス。
「TRUE LOVE WAYS」
で、コノ曲のレコーディング・セッションじゃぁ「ポール・アンカ」の曲を演ったり「ジ・エヴァリー・ブラザーズ」のスタッフ・ライターの「ブライアント」夫妻の曲も取り上げていましたナ。
実はコノ時に演った「ブライアント」夫妻の曲ってのは「エヴァリー」兄弟が気に入らなかったって事で「バディ」に回って来た曲だったそうでゲス。
「RAINING IN MY HEART」
改めて聴き返してみると、”「エヴァリー」っぽい”曲ですナ。
んで、「バディ」にもピッタリでもありますよネ。
コノ4ヶ月後に「バディ・ホリー」は飛行機事故で亡くなるんだけど、後にフォロワーが多かったのは、こういったメロディー・タイプの曲があったからだと思うでゲス。
「ロックンロール」だけだったらアレ程の影響力は無かったと考えるのは俺だけでしょうかネ。
さて、「バディ・ホリー」のニューヨーク・レコーディングの1年後の1959年11月に「ジ・エヴァリー・・・」もニューヨークにやって来たんでゲス。
所属していた「ケイデンス」レーベル社長の、
「アーチー・ブレイヤー」

が、
「ジルベルト・ベコー」

の名曲を社長「ブレイヤー」自身が編曲してストリングスをバックに「ジ・エヴァリー・・・」にカヴァーさせたのが、
「LET IT BE ME」
ですナ。
イイ曲だなぁ。
あのネ、ニューヨークにある「ケーデンス」レーベルの社長「アーチー・ブレイヤー」ってのは、元々バンド・リーダーだった人物で、こういったサウンドのアレンジは得意なんでゲス。
あとサ、「ジ・エヴァリー・・・」が所属していた出版社は「エイカフ・ローズ」っていって、ナッシュヴィルじゃぁ一番大きくってヒットを連発していた会社ですナ。
1957年「エイカフ・ローズ」と新しく契約した、
「ドン・ギブソン」

がナッシュヴィルにやって来るんでゲス。
んで、「RCA」レーベルと契約して、「チェット・アトキンス」がプロデューサーとして担当した第1号の歌手になりましたナ。
「BLUE BLUE DAY」
で、最初は昔ながらの「カントリー・ミュージック」を唄っていた「ドン・ギブソン」は全くヒットが出なくって、ソノ頃「チェット・アトキンス」は「ジ・エヴァリー・・・」のセッションに参加していたので、
「なぁ、今はエヴァリーの時代だろ。 ああゆう曲を作ってみたらどうだろう。」
ってアドバイスしたところ「ドン・ギブソン」が作って持って来たのがコノ曲で、ヒットはしなかったんだけど、「チェット・アトキンス」と「ドン・ギブソン」は”コノ”路線に手応えを感じて”続編”を作ろうって事になったんでゲス。
出来た新曲は、
「OH LONESOME ME」
で、「カントリー・ミュージック・チャート」1位、「ポップ・チャート」7位ってな大ヒットになりましたナ。
ギターは「チェット・アトキンス」で、プロデューサーとしても初めてのヒット曲ってな事でゲス。
コーラスは「ザ・ジョーダネアーズ」ですナ。
実はコノ曲って、
”ナッシュヴィルのレコーディング史上初めての音が録音されている”
んでゲス。
ミックスが低いから判り難いんだけど、シンコペーションの”バスドラム”が入っているんですヨ。
「リズムンブルーズ」じゃぁ何曲もあったんだけど、「カントリー・ミュージック」で使われたのはコノ曲が初めてでゲス。
あと、「ドン・ギブソン」は「オー・ロンサム・・・」よりもプッシュしたかった曲があったんだけど、レコーディング・スタッフが反対してB面にされちゃったんですナ。
”ソノ”B面の曲ってのが、
「I CAN’T STOP LOVIN’ YOU」(邦題「愛さずにはいられない」)
で、「ポップ・チャート」は81位って低かったんだけど「カントリー・ミュージック・チャート」だと7位でしたヨ。
後に、
「レイ・チャールズ」

によって世界的な大ヒットになるんだけど、”ソレ”は4年後の事でゲス。
「ドン・ギブソン」もコノ曲を作った時にゃぁコレ程の世界的大ヒットになるとは想像してなかったと思いますナ。
「愛さずには・・・」がヒットした事で以前にリリースした先出の「ブルー・ブルー・デイ」もコノ後「カントリー・ミュージック・チャート」1位、「ポップ・チャート」20位になったんでゲス。
ココから「ドン・ギブソン」はヒット・チャートの常連になって次々にヒットをかっ飛ばすんですナ。
今回はココ迄でゲス。
んじゃぁ、又。






2023年11月8日 13時26分02秒 (Wed)
ソノ後のナッシュヴィルの話 (パート1)
「エルヴィス」が「ハートブレイク・ホテル」で全米に登場する前のナッシュヴィルで「エルヴィス」が唄った「ザッツ・オール・ライト」を自分のレパートリーに取り入れた、
「マーティ・ロビンス」

「THAT'S ALL RIGHT」
は、次に「チャック・ベリー」の、
「MAYBELLINE」
更には「リトル・リチャード」の、
「LONG TALL SALLY」(邦題「のっぽのサリー」)
にも挑戦したんでゲス。
丁度同じ時期に、
「パット・ブーン」

もコノ「のっぽのサリー」を唄ってましたナ。
「マーティ・ロビンス」にはヒットしなかったシングル盤のB面にこんな曲があったんでゲス。
「SINGING THE BLUES」(邦題「ブルースを唄おう」)
「グランド・オール・オプリー」に「マーティ」が出演していた時に楽屋に新人作家が売り込みに来た曲だそうで、気に入った「マーティ」はレコーディングをしたんだけど、プロデューサーの「ドン・ロー」はB面でと指示をしたそうですナ。
ヒットしなかったB面の「ブルースを・・・」に注目をしたプロデューサーがいて、「マーティ」所属の「CBS」社のヘッドの、
「ミッチ・ミラー」

だったんでゲス。
「ミッチ・ミラー」は1950年に「コロンビア」レーベルに入社して、
「トニー・ベネット」

「ローズマリー・クルーニー」

「ジョー・スタッフォード」

「フランキー・レイン」

等のヒット曲は殆どを担当しましたナ。
特に顕著だったのは、当時「カントリー・ミュージック」No.1の、
「ハンク・ウィリアムズ」

の曲をカヴァーしたって事でゲス。
何曲かある中で、「トニー・ベネット」が唄った、
「COLD COLD HEART」
と、「ローズマリー・クルーニー」が唄った、
「HALF AS MUCH」
は、其々1951年、52年のNo.1ヒット・ソングで、いずれも「ミッチ・ミラー」の手腕によるモノでしたナ。
アレンジは、
「パーシー・フェイス」

がしていたでゲス。
1950年代「ミッチ・ミラー」の陰にゃぁ「パーシー・フェイス」がいたんですナ。
んでネ、常に「カントリー・ミュージック」業界にも注目していた「ミッチ・ミラー」は同社の「マーティ・ロビンス」のB面曲に注目する事も出来たんでしょうネ。
さて、コノ「ブルースを・・・」を同社の、
「ガイ・ミッシェル」

にレコーディングさせて、こんな風にアレンジをして「ポップ・ミュージック」へと変貌させたんでゲス。
曲は見事に「ポップ・チャート」1位に輝きましたナ。
コノ曲のアレンジは、
「レイ・コニフ」

がやっているでゲス。
あのネ、「ミッチ・ミラー」と「レイ・コニフ」は、「ガイ・ミッシェル」の「ブルースを・・・」の少し前にビッグ・ヒットをチャートに送り込んでいたんですヨ。
ソノ曲は、
「ジョニー・レイ」

の、
「JUST WORKING IN THE RAIN」(邦題「雨に歩けば」)
で、何だか「ブルースを・・・」と同じ様なアレンジですナ。(てか、「ブルースを・・・」の方が「雨に・・・」に似たアレンジになっているんでゲス。)
ココで驚きの情報ですヨ。
「エルヴィス」のマネージャー「トム・パーカー」大佐は、「エルヴィス」を「RCA」レーベルに移籍する前に「アトランティック」レーベルに断られて、次に「コロンビア」レーベルにも話を持ち掛けていたそうでゲス。
んでも、「ミッチ・ミラー」が、
「私はコノ様な猥雑な音楽は嫌いダ。我が社には必要ない。」
っていう風に断ったみたいですナ。
「アトランティック」レーベルの話は知っていたけど、「コロンビア」レーベルにもってのは知らなかったでゲス。
さて、「ガイ・ミッシェル」の「ブルースを・・・」が「ポップ・チャート」で1位になったので「コロンビア」レーベルはオリジナルの「マーティ・ロビンス」盤を再リリースしたところ、ソレ迄「カントリー・ミュージック・チャート」しか入った事がなかった「マーティ・ロビンス」は、コノ「ブルースを・・・」で「ポップ・チャート」17位になって、
”「マーティ・ロビンス」初のナショナル・チャート入り”
という事になりましたナ。
んで、「マーティ」はソレ迄支えてくれていたプロデューサーの「ドン・ロー」と別れてナッシュヴィルからニューヨークに行くんでゲス。
「ミッチ・ミラー」プロデュース、「レイ・コニフ」アレンジで、ニューヨークの「コロンビア・スタジオ」で自作曲をレコーディングしましたナ。
「A WHITE SPORT COAT (AND A PINK CARNATION)」(邦題「ホワイト・スポーツコート」)
で、「ポップ・チャート」2位の大ヒットでゲス。
ギターを弾いていたのは「アル・カイオラ」ですヨ。
”ナッシュヴィル・サウンド”と”ニューヨーク・サウンド”との合体が「ポップ・カントリー・ミュージック」って言われるジャンルの先駆けとなったでゲス。
因みに「ホワイト・・・」がチャート上位にあった頃、1位だったのが「エルヴィス」の、
「ALL SHOOK UP」(邦題「恋にしびれて」)
で、9週間も1位でしたナ。
次に1位になった曲は「パット・ブーン」の、
「LOVE LETTERS IN THE SAND」(邦題「砂に書いたラブ・レター」)
で、コノ「砂に書いた・・・」も7週連続1位っていう「恋にしびれて」とどちらも甲乙付け難い大ヒットだったでゲス。
所謂、
”「エルヴィス」派VS「パット」派”
ってな対立図式が登場したのがコノ時期ですナ。
「砂に書いた・・・」が1位の時に2位だったのが、「マーティ・ロビンス」の「ホワイト・・・」で、たった1年前にゃぁ「パット」も「マーティ」も「のっぽのサリー」を唄っていたんだけど、1年経ったら「エルヴィス」に対抗する「ポップ・ミュージック」側の歌手になったんでゲス。
さて、ニューヨークにやって来て全米に知られる歌手になった「マーティ・ロビンス」の次に与えられた曲は、次世代の「アメリカン・ポップス」を担う事になるコンビの最初のヒットとなりましたナ。
作者コンビの名前は、
「ハル・デヴィッド」&「バート・バカラック」

(左「バカラック」、右「デヴィッド」)
「THE STORY OF MY LIFE」
大好き!!!!!
「ポップ・チャート」じゃぁ15位だったんだけど「カントリー・ミュージック・チャート」だと1位でゲス。
ヒット曲が出る「マーティ・ロビンス」に「ミッチ・ミラー」は次々に新人作家の曲を与えるんですナ。
次に登場した作家は、
「バリー・ディヴォーゾン」

で、
「JUST MARRIED」
「ポップ・チャート」で26位、「カントリー・ミュージック・チャート」1位でゲス。
「ディヴォーゾン」は「マーティ・ロビンス」に唄ってもらおうと「ミッチ・ミラー」に直接送ったところ「マーティ」が唄ってくれたので大変嬉しくラッキーだったと本人は話たそうですヨ。
コノ曲で作家スタートを切った「ディヴォーゾン」は、ソノ後に、
「ジョニー・バーネット」

に、
「DREAMIN’」(邦題「夢にみる恋」)
を、次にリリースしたのは自分で作ったレーベルでプロデュースした曲が、
「ザ・カスケーズ」

の、
「RHYTHM OF THE RAIN」(邦題「悲しき雨音」)
でゲス。
俺ネ、結構昔から知っていた曲で、
「I WONDER WHAT SHE’S DOING TONIGHT」(邦題「恋の危険信号」)
ってのがあって、唄ってたのが、
「バリー & ザ・タマーレンズ」

ってなグループで、”コノ”「バリー」ってのが「バリー・ディヴォーゾン」だったって事は最近知りましたヨ。
えっとネ、1957年9月「マーティ・ロビンス」は「ロビンス」レーベルってな会社を立ち上げるんだけど、只の歌手だけじゃぁなんて思ったんでしょうかネ。
原盤出版の事業を始めるんでゲス。

んでも、8枚位シングル盤をリリースして10ヶ月で止めちゃうんだけど、ソノ中に、
「LOVIN’ AT NIGHT」
ってな曲があって、演っていたのは「ジ・アクセンツ」ですナ。
コノ曲で唄っていた人物がヒット・チャートに登場したのは13年後の1970年で、
「ブレッド」

の、
「MAKE IT WITH YOU」(邦題「二人の架け橋」)
で、「ブレッド」のリーダー「デヴィッド・ゲイツ」も「ロックンロール」時代にデビューしていたんでゲス。
「ミッチ・ミラー」についても少しUpしましょうネ。
「ミッチ・ミラー」は自分の”合唱団”を持っていて、デビューは1955年の秋で、
「THE YELLOW ROSE OF TEXAS」(邦題「テキサスの黄色いバラ」草原のマーチ)
が6週間1位を続けた大ヒットとなったでゲス。
1958年には、
「MARCH FROM THE RIVER KWAI AND COLONEL BOGEY」(邦題「クワイ河マーチ」)
をヒットさせましたナ。
さて、今回はココ迄でゲス。
んじゃぁ、次回をお楽しみに。



「マーティ・ロビンス」

「THAT'S ALL RIGHT」
は、次に「チャック・ベリー」の、
「MAYBELLINE」
更には「リトル・リチャード」の、
「LONG TALL SALLY」(邦題「のっぽのサリー」)
丁度同じ時期に、
「パット・ブーン」

もコノ「のっぽのサリー」を唄ってましたナ。
「マーティ・ロビンス」にはヒットしなかったシングル盤のB面にこんな曲があったんでゲス。
「SINGING THE BLUES」(邦題「ブルースを唄おう」)
「グランド・オール・オプリー」に「マーティ」が出演していた時に楽屋に新人作家が売り込みに来た曲だそうで、気に入った「マーティ」はレコーディングをしたんだけど、プロデューサーの「ドン・ロー」はB面でと指示をしたそうですナ。
ヒットしなかったB面の「ブルースを・・・」に注目をしたプロデューサーがいて、「マーティ」所属の「CBS」社のヘッドの、
「ミッチ・ミラー」

だったんでゲス。
「ミッチ・ミラー」は1950年に「コロンビア」レーベルに入社して、
「トニー・ベネット」

「ローズマリー・クルーニー」

「ジョー・スタッフォード」

「フランキー・レイン」

等のヒット曲は殆どを担当しましたナ。
特に顕著だったのは、当時「カントリー・ミュージック」No.1の、
「ハンク・ウィリアムズ」

の曲をカヴァーしたって事でゲス。
何曲かある中で、「トニー・ベネット」が唄った、
「COLD COLD HEART」
と、「ローズマリー・クルーニー」が唄った、
「HALF AS MUCH」
は、其々1951年、52年のNo.1ヒット・ソングで、いずれも「ミッチ・ミラー」の手腕によるモノでしたナ。
アレンジは、
「パーシー・フェイス」

がしていたでゲス。
1950年代「ミッチ・ミラー」の陰にゃぁ「パーシー・フェイス」がいたんですナ。
んでネ、常に「カントリー・ミュージック」業界にも注目していた「ミッチ・ミラー」は同社の「マーティ・ロビンス」のB面曲に注目する事も出来たんでしょうネ。
さて、コノ「ブルースを・・・」を同社の、
「ガイ・ミッシェル」

にレコーディングさせて、こんな風にアレンジをして「ポップ・ミュージック」へと変貌させたんでゲス。
曲は見事に「ポップ・チャート」1位に輝きましたナ。
コノ曲のアレンジは、
「レイ・コニフ」

がやっているでゲス。
あのネ、「ミッチ・ミラー」と「レイ・コニフ」は、「ガイ・ミッシェル」の「ブルースを・・・」の少し前にビッグ・ヒットをチャートに送り込んでいたんですヨ。
ソノ曲は、
「ジョニー・レイ」

の、
「JUST WORKING IN THE RAIN」(邦題「雨に歩けば」)
で、何だか「ブルースを・・・」と同じ様なアレンジですナ。(てか、「ブルースを・・・」の方が「雨に・・・」に似たアレンジになっているんでゲス。)
ココで驚きの情報ですヨ。
「エルヴィス」のマネージャー「トム・パーカー」大佐は、「エルヴィス」を「RCA」レーベルに移籍する前に「アトランティック」レーベルに断られて、次に「コロンビア」レーベルにも話を持ち掛けていたそうでゲス。
んでも、「ミッチ・ミラー」が、
「私はコノ様な猥雑な音楽は嫌いダ。我が社には必要ない。」
っていう風に断ったみたいですナ。
「アトランティック」レーベルの話は知っていたけど、「コロンビア」レーベルにもってのは知らなかったでゲス。
さて、「ガイ・ミッシェル」の「ブルースを・・・」が「ポップ・チャート」で1位になったので「コロンビア」レーベルはオリジナルの「マーティ・ロビンス」盤を再リリースしたところ、ソレ迄「カントリー・ミュージック・チャート」しか入った事がなかった「マーティ・ロビンス」は、コノ「ブルースを・・・」で「ポップ・チャート」17位になって、
”「マーティ・ロビンス」初のナショナル・チャート入り”
という事になりましたナ。
んで、「マーティ」はソレ迄支えてくれていたプロデューサーの「ドン・ロー」と別れてナッシュヴィルからニューヨークに行くんでゲス。
「ミッチ・ミラー」プロデュース、「レイ・コニフ」アレンジで、ニューヨークの「コロンビア・スタジオ」で自作曲をレコーディングしましたナ。
「A WHITE SPORT COAT (AND A PINK CARNATION)」(邦題「ホワイト・スポーツコート」)
で、「ポップ・チャート」2位の大ヒットでゲス。
ギターを弾いていたのは「アル・カイオラ」ですヨ。
”ナッシュヴィル・サウンド”と”ニューヨーク・サウンド”との合体が「ポップ・カントリー・ミュージック」って言われるジャンルの先駆けとなったでゲス。
因みに「ホワイト・・・」がチャート上位にあった頃、1位だったのが「エルヴィス」の、
「ALL SHOOK UP」(邦題「恋にしびれて」)
で、9週間も1位でしたナ。
次に1位になった曲は「パット・ブーン」の、
「LOVE LETTERS IN THE SAND」(邦題「砂に書いたラブ・レター」)
で、コノ「砂に書いた・・・」も7週連続1位っていう「恋にしびれて」とどちらも甲乙付け難い大ヒットだったでゲス。
所謂、
”「エルヴィス」派VS「パット」派”
ってな対立図式が登場したのがコノ時期ですナ。
「砂に書いた・・・」が1位の時に2位だったのが、「マーティ・ロビンス」の「ホワイト・・・」で、たった1年前にゃぁ「パット」も「マーティ」も「のっぽのサリー」を唄っていたんだけど、1年経ったら「エルヴィス」に対抗する「ポップ・ミュージック」側の歌手になったんでゲス。
さて、ニューヨークにやって来て全米に知られる歌手になった「マーティ・ロビンス」の次に与えられた曲は、次世代の「アメリカン・ポップス」を担う事になるコンビの最初のヒットとなりましたナ。
作者コンビの名前は、
「ハル・デヴィッド」&「バート・バカラック」

(左「バカラック」、右「デヴィッド」)
「THE STORY OF MY LIFE」
大好き!!!!!
「ポップ・チャート」じゃぁ15位だったんだけど「カントリー・ミュージック・チャート」だと1位でゲス。
ヒット曲が出る「マーティ・ロビンス」に「ミッチ・ミラー」は次々に新人作家の曲を与えるんですナ。
次に登場した作家は、
「バリー・ディヴォーゾン」

で、
「JUST MARRIED」
「ポップ・チャート」で26位、「カントリー・ミュージック・チャート」1位でゲス。
「ディヴォーゾン」は「マーティ・ロビンス」に唄ってもらおうと「ミッチ・ミラー」に直接送ったところ「マーティ」が唄ってくれたので大変嬉しくラッキーだったと本人は話たそうですヨ。
コノ曲で作家スタートを切った「ディヴォーゾン」は、ソノ後に、
「ジョニー・バーネット」

に、
「DREAMIN’」(邦題「夢にみる恋」)
を、次にリリースしたのは自分で作ったレーベルでプロデュースした曲が、
「ザ・カスケーズ」

の、
「RHYTHM OF THE RAIN」(邦題「悲しき雨音」)
でゲス。
俺ネ、結構昔から知っていた曲で、
「I WONDER WHAT SHE’S DOING TONIGHT」(邦題「恋の危険信号」)
「バリー & ザ・タマーレンズ」

ってなグループで、”コノ”「バリー」ってのが「バリー・ディヴォーゾン」だったって事は最近知りましたヨ。
えっとネ、1957年9月「マーティ・ロビンス」は「ロビンス」レーベルってな会社を立ち上げるんだけど、只の歌手だけじゃぁなんて思ったんでしょうかネ。
原盤出版の事業を始めるんでゲス。

んでも、8枚位シングル盤をリリースして10ヶ月で止めちゃうんだけど、ソノ中に、
「LOVIN’ AT NIGHT」
ってな曲があって、演っていたのは「ジ・アクセンツ」ですナ。
コノ曲で唄っていた人物がヒット・チャートに登場したのは13年後の1970年で、
「ブレッド」

の、
「MAKE IT WITH YOU」(邦題「二人の架け橋」)
で、「ブレッド」のリーダー「デヴィッド・ゲイツ」も「ロックンロール」時代にデビューしていたんでゲス。
「ミッチ・ミラー」についても少しUpしましょうネ。
「ミッチ・ミラー」は自分の”合唱団”を持っていて、デビューは1955年の秋で、
「THE YELLOW ROSE OF TEXAS」(邦題「テキサスの黄色いバラ」草原のマーチ)
が6週間1位を続けた大ヒットとなったでゲス。
1958年には、
「MARCH FROM THE RIVER KWAI AND COLONEL BOGEY」(邦題「クワイ河マーチ」)
をヒットさせましたナ。
さて、今回はココ迄でゲス。
んじゃぁ、次回をお楽しみに。



プロフィール

- 自己紹介
- WW2以降1970年代迄の”映画”、”音楽”、”ファッション”等などが大好きな、
”「BEAT」野郎”
で、特に1950年代が大好物でゲス。
岐阜で「MEMPHIS」っていうアメカジ店を2010年1月末日迄やってましたが、現在は家業をついで”製帽業”をしてますヨ。(「CA4LA」、「ポール・スチュアート」、「ザ・スコッチ・ハウス」、「コムサ・デ・モード」等より仕事を頂いているでゲス。)
他にも個人的に「MEMPHIS工房」として”帽子”製作、販売していますヨ。(コチラは出来上がり次第「作品集」のコーナーに随時Upしますのでご覧くださいませ、ませ。 詳細のお問い合わせ承りますので、お気軽にどうぞ。)
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