2024年1月 アーカイブ
2024年1月21日 8時21分23秒 (Sun)
ニューヨークの3人 (パート3)
さて、前回は、
「コニー・フランシス」

が、
「ニール・セダカ」

と「ハワード・グリーンフィールド」が作った「間抜けなキューピッド」を選んでレコーディングしたんだけど、ソノ時にアレンジャーの「チャック・セーグル」と「ニール」は出会ったっていうところ迄のUpでしたナ。
んで、今回はソノ続きでゲス。
「ドン・カーシュナー」が始めた「アルドン」出版社と1958年6月に契約した「ニール」に与えられた仕事は、
「リトル・アンソニー&ジ・インペリアルズ」

の第2弾を作る事でしたナ。
「リトル・アンソニー」達の第1弾は、
「TEARS ON MY PILLOW」
で、「ポップ・チャート」4位ってな大ヒットで、彼等の所属している「エンド」レーベルは”ソレ”に続けと第2弾を探していたんでゲス。
んで、「ニール・セダカ」と「ハワード・グリーンフィールド」が作った曲が選ばれたんですナ。
「THE DIARY」(邦題「恋の日記」)
先出の第1弾「ティアーズ・オン・・・」に似た曲調なんだけど、肝心な所でコードを間違えたり勝手に歌詞を変えたりして「ニール」は随分憤慨したらしく「アルドン」出版社の、
「アル・ネヴィンズ」

勧めもあって「ニール」は自分のレコード第1弾を「恋の・・・」にしようと決めたんでゲス。
そうそう、「アル・ネヴィンズ」って人物は、
「ザ・スリー・サンズ」

のメンバーで、「ニール」を「RCA」レーベルに勧めたのも彼だそうでヨ。
あとネ、出版社名の”「アルドン」”ってのは彼「アル・ネヴィンズ」の「アル」と「ドン・カーシュナー」の「ドン」を繋げて「アルドン」としましたナ。
晴れてデビュー曲「恋の・・・」をレコーディングする事となったでゲス。
サックスが入っているけど、
「キング・カーティス」

ですナ。
演ってはみたものの、満足のいく出来じゃぁなかったんでゲス。
んで、「ニール」は「コニー・フランシス」のセッションで知り合ったアレンジャーの「チャック・セーグル」を呼んだんですナ。
以降初期の楽曲は全て「チャック・セーグル」の編曲となって、「ニール」のデビュー・シングル盤「恋の・・・」は目出度く1959年1月にリリースされたでゲス。
「ポップ・チャート」14位、「リズムンブルーズ・チャート」25位ってな事で、やっとコノ時点で「コニー・フランシス」、「ボビー・ダーリン」と肩を並べる事が出来たんでしたナ。
おそらくニューヨーク「RCA」スタジオでのレコーディングだと思うんだけど、ヴォーカルに少しエコーが掛かっているでしょ。
「エルヴィス」が1956年1月30日にレコーディングした頃とは違っていて、コノ頃になると”鉄板エコー”なんかもあるから、凄くイイ感じに仕上がっているでゲス。
何かよく分からん”風呂エコー”(俺が勝手にそう呼んでいるだけですヨ。)とは全然違うもんネ。
さぁ、第2弾ダ!!!ってな事で、次はお得意の”「ジェリー・リー・ルイス」調”「ロックンロール」でゲス。
「I GO APE」
曲が始まる前に”語り”が付いてるんだけど、”バース”って言って「ニール」はバース付きってのが”得意技”で「チャック・セーグル」のアレンジが光っていて、特にドラムがイイですナ。
「サミュエル・スティックス・エヴァンス」

がドラムで、もう1人ブラシを叩いている人がいてダブルでリズムを刻んでいるでゲス。
カッチョイイ「ロックンロール」が出来たんだけど「ポップ・チャート」42位って振るわなかったですナ。
まぁ、1959年になると「ロックンロール」に陰りが出て来た頃なので、そういった関係もあったのかもなぁ。
さて、「ニール・セダカ」が「アイ・ゴー・・・」をレコーディングしていた頃に、
「ボビー・ダーリン」

は自作の「ポップ・ソング」のデモを作っていたでゲス。
リード・ギターは「アル・カイオラ」で「ボビー」はサイド・ギターを演ってますナ。
”コレ”ネ、正式なレコーディングをする前日に「ボビー」は「ニール・セダカ」に連絡してピアノを頼んだんでゲス。
「ボビー・ダーリン」ってデビュー以来ピアノは全部自分で演っていてセッション・マンを使った事は1度も無かったのに、どうゆう訳だか”コノ”セッションだけ前日突然に「ニール・セダカ」を頼んでピアニストとして使ったんですナ。
「アル・カイオラ」のギターがデモより高音になっていて、オクターブ上げた方がイイってセッション中に「ニール」が提案したみたいでゲス。
あと、ドラムは「ニール」のメイン・ドラマーの「サミュエル・スティックス・エヴァンス」が叩いていて、彼が「ボビー・ダーリン」のセッションに参加したのは後にも先にもコノ時だけなんですナ。
つまり、「ドリーム・ラヴァー」って曲は、
”「ニール・セダカ」サウンド”
なんでゲス。
「ドリーム・・・」が1959年6月に「ポップ・チャート」2位と大ヒットしていた頃に追いかける様にチャートに上がってきたのが「コニー・フランシス」の、
「LIPSTICK ON YOUR COLLAR」(邦題「カラーに口紅」)
で、ギターは、
「ジョージ・バーンズ」

っていう「ジャズ」のギタリストで、途中のフレーズは流石”「ジャズ」マン”ってな感じですナ。
コノ頃になってくると「ジャズ」のミュージシャンも「ロックンロール」のニュアンスを可成り出せる様になってきているでゲス。
「カラーに・・・」のB面は「ニール・セダカ」の「バラード」ですナ。
「FRANKIE」
イヤァ、イイなぁ。
「コニー」と「ニール」の相性がピッタリでゲス。
A面「カラーに・・・」が「ポップ・チャート」5位、B面「フランキー」が9位ってな”両面トップ10入り”ってな「コニー・フランシス」初の”両面ヒット”ですナ。
「カラーに・・・」、「フランキー」の作者「ニール・セダカ」も次にリリースした曲が大ヒットする事になるでゲス。
「OH! CAROL」
で、「ポップ・チャート」9位ってな「ニール」にとって”初トップ10入り”の大ヒットでしたナ。
アレンジは勿論「チャック・セーグル」でゲス。
「ボビー・ダーリン」、「コニーフランシス」に続いて「ニール」も”トップ10シンガー”の仲間入り出来たんだけど、3人共コノ時点では”ナンバー1ヒット”は無いですナ。
さて、「オー・キャロル」なんだけど、アレンジの”元ネタ”は、ご存じ、
「ザ・ダイアモンズ」

の、
「LITTLE DARLIN’」
で、実はコノ曲のアレンジは「チャック・セーグル」なんでゲス。
なので、「オー・キャロル」は「リトル・ダーリン」の真似じゃぁなくって本家本物のアレンジだったんですナ。
もう一つ、「オー・キャロル」にゃぁ”アンサー・ソング”があったって事は有名でしょ。
唄ったのは、
「キャロル・キング」

「OH, NEIL!」
作詞は夫の、
「ジェリー・ゴフィン」

で、10歳の頃から「ニール・セダカ」と「キャロル・キング」は知り合いで、そんな頃から仲が良かった「キャロル」の名前を使って作詞を頼まれた「ハワード・グリーンフィールド」が書き上げた曲が「オー・キャロル」だったんでゲス。

「オー・ニール」のアレンジとプロデュースは「チャック・セーグル」で、コノ曲のお陰で「ジェリー・ゴフィン」と「キャロル・キング」は「ドン・カーシュナー」と知り合って「アルドン」出版社と契約したんですナ。
んで、「ゴフィン」&「キング」は「ニール・セダカ」に次いで「アルドン」出版社のエースになっていったし、更にゃぁ”ゴールデン・シックスティーズ”の牽引車となっていくんでゲス。
今回はココ迄ですヨ。
続きは次回でゲス。
んじゃぁ、又。









(左から「ドン・カーシュナー」、「ニール・セダカ」、「アル・ネヴィンズ」)
「コニー・フランシス」

が、
「ニール・セダカ」

と「ハワード・グリーンフィールド」が作った「間抜けなキューピッド」を選んでレコーディングしたんだけど、ソノ時にアレンジャーの「チャック・セーグル」と「ニール」は出会ったっていうところ迄のUpでしたナ。
んで、今回はソノ続きでゲス。
「ドン・カーシュナー」が始めた「アルドン」出版社と1958年6月に契約した「ニール」に与えられた仕事は、
「リトル・アンソニー&ジ・インペリアルズ」

の第2弾を作る事でしたナ。
「リトル・アンソニー」達の第1弾は、
「TEARS ON MY PILLOW」
で、「ポップ・チャート」4位ってな大ヒットで、彼等の所属している「エンド」レーベルは”ソレ”に続けと第2弾を探していたんでゲス。
んで、「ニール・セダカ」と「ハワード・グリーンフィールド」が作った曲が選ばれたんですナ。
「THE DIARY」(邦題「恋の日記」)
先出の第1弾「ティアーズ・オン・・・」に似た曲調なんだけど、肝心な所でコードを間違えたり勝手に歌詞を変えたりして「ニール」は随分憤慨したらしく「アルドン」出版社の、
「アル・ネヴィンズ」

勧めもあって「ニール」は自分のレコード第1弾を「恋の・・・」にしようと決めたんでゲス。
そうそう、「アル・ネヴィンズ」って人物は、
「ザ・スリー・サンズ」

のメンバーで、「ニール」を「RCA」レーベルに勧めたのも彼だそうでヨ。
あとネ、出版社名の”「アルドン」”ってのは彼「アル・ネヴィンズ」の「アル」と「ドン・カーシュナー」の「ドン」を繋げて「アルドン」としましたナ。
晴れてデビュー曲「恋の・・・」をレコーディングする事となったでゲス。
サックスが入っているけど、
「キング・カーティス」

ですナ。
演ってはみたものの、満足のいく出来じゃぁなかったんでゲス。
んで、「ニール」は「コニー・フランシス」のセッションで知り合ったアレンジャーの「チャック・セーグル」を呼んだんですナ。
以降初期の楽曲は全て「チャック・セーグル」の編曲となって、「ニール」のデビュー・シングル盤「恋の・・・」は目出度く1959年1月にリリースされたでゲス。
「ポップ・チャート」14位、「リズムンブルーズ・チャート」25位ってな事で、やっとコノ時点で「コニー・フランシス」、「ボビー・ダーリン」と肩を並べる事が出来たんでしたナ。
おそらくニューヨーク「RCA」スタジオでのレコーディングだと思うんだけど、ヴォーカルに少しエコーが掛かっているでしょ。
「エルヴィス」が1956年1月30日にレコーディングした頃とは違っていて、コノ頃になると”鉄板エコー”なんかもあるから、凄くイイ感じに仕上がっているでゲス。
何かよく分からん”風呂エコー”(俺が勝手にそう呼んでいるだけですヨ。)とは全然違うもんネ。
さぁ、第2弾ダ!!!ってな事で、次はお得意の”「ジェリー・リー・ルイス」調”「ロックンロール」でゲス。
「I GO APE」
曲が始まる前に”語り”が付いてるんだけど、”バース”って言って「ニール」はバース付きってのが”得意技”で「チャック・セーグル」のアレンジが光っていて、特にドラムがイイですナ。
「サミュエル・スティックス・エヴァンス」

がドラムで、もう1人ブラシを叩いている人がいてダブルでリズムを刻んでいるでゲス。
カッチョイイ「ロックンロール」が出来たんだけど「ポップ・チャート」42位って振るわなかったですナ。
まぁ、1959年になると「ロックンロール」に陰りが出て来た頃なので、そういった関係もあったのかもなぁ。
さて、「ニール・セダカ」が「アイ・ゴー・・・」をレコーディングしていた頃に、
「ボビー・ダーリン」

は自作の「ポップ・ソング」のデモを作っていたでゲス。
リード・ギターは「アル・カイオラ」で「ボビー」はサイド・ギターを演ってますナ。
”コレ”ネ、正式なレコーディングをする前日に「ボビー」は「ニール・セダカ」に連絡してピアノを頼んだんでゲス。
「ボビー・ダーリン」ってデビュー以来ピアノは全部自分で演っていてセッション・マンを使った事は1度も無かったのに、どうゆう訳だか”コノ”セッションだけ前日突然に「ニール・セダカ」を頼んでピアニストとして使ったんですナ。
「アル・カイオラ」のギターがデモより高音になっていて、オクターブ上げた方がイイってセッション中に「ニール」が提案したみたいでゲス。
あと、ドラムは「ニール」のメイン・ドラマーの「サミュエル・スティックス・エヴァンス」が叩いていて、彼が「ボビー・ダーリン」のセッションに参加したのは後にも先にもコノ時だけなんですナ。
つまり、「ドリーム・ラヴァー」って曲は、
”「ニール・セダカ」サウンド”
なんでゲス。
「ドリーム・・・」が1959年6月に「ポップ・チャート」2位と大ヒットしていた頃に追いかける様にチャートに上がってきたのが「コニー・フランシス」の、
「LIPSTICK ON YOUR COLLAR」(邦題「カラーに口紅」)
で、ギターは、
「ジョージ・バーンズ」

っていう「ジャズ」のギタリストで、途中のフレーズは流石”「ジャズ」マン”ってな感じですナ。
コノ頃になってくると「ジャズ」のミュージシャンも「ロックンロール」のニュアンスを可成り出せる様になってきているでゲス。
「カラーに・・・」のB面は「ニール・セダカ」の「バラード」ですナ。
「FRANKIE」
イヤァ、イイなぁ。
「コニー」と「ニール」の相性がピッタリでゲス。
A面「カラーに・・・」が「ポップ・チャート」5位、B面「フランキー」が9位ってな”両面トップ10入り”ってな「コニー・フランシス」初の”両面ヒット”ですナ。
「カラーに・・・」、「フランキー」の作者「ニール・セダカ」も次にリリースした曲が大ヒットする事になるでゲス。
「OH! CAROL」
で、「ポップ・チャート」9位ってな「ニール」にとって”初トップ10入り”の大ヒットでしたナ。
アレンジは勿論「チャック・セーグル」でゲス。
「ボビー・ダーリン」、「コニーフランシス」に続いて「ニール」も”トップ10シンガー”の仲間入り出来たんだけど、3人共コノ時点では”ナンバー1ヒット”は無いですナ。
さて、「オー・キャロル」なんだけど、アレンジの”元ネタ”は、ご存じ、
「ザ・ダイアモンズ」

の、
「LITTLE DARLIN’」
で、実はコノ曲のアレンジは「チャック・セーグル」なんでゲス。
なので、「オー・キャロル」は「リトル・ダーリン」の真似じゃぁなくって本家本物のアレンジだったんですナ。
もう一つ、「オー・キャロル」にゃぁ”アンサー・ソング”があったって事は有名でしょ。
唄ったのは、
「キャロル・キング」

「OH, NEIL!」
作詞は夫の、
「ジェリー・ゴフィン」

で、10歳の頃から「ニール・セダカ」と「キャロル・キング」は知り合いで、そんな頃から仲が良かった「キャロル」の名前を使って作詞を頼まれた「ハワード・グリーンフィールド」が書き上げた曲が「オー・キャロル」だったんでゲス。

「オー・ニール」のアレンジとプロデュースは「チャック・セーグル」で、コノ曲のお陰で「ジェリー・ゴフィン」と「キャロル・キング」は「ドン・カーシュナー」と知り合って「アルドン」出版社と契約したんですナ。
んで、「ゴフィン」&「キング」は「ニール・セダカ」に次いで「アルドン」出版社のエースになっていったし、更にゃぁ”ゴールデン・シックスティーズ”の牽引車となっていくんでゲス。
今回はココ迄ですヨ。
続きは次回でゲス。
んじゃぁ、又。









(左から「ドン・カーシュナー」、「ニール・セダカ」、「アル・ネヴィンズ」)
2024年1月7日 14時56分37秒 (Sun)
ニューヨークの3人 (パート2)
今日は月2回の仕事休みの日なんだけど、昨年末から沢山入荷があったので午前中は仕事をやって、午後からは休んで”コレ”をUpしているでゲス。
前回「ボビー・ダーリン」、「コニー・フランシス」、「ニール・セダカ」ってなニューヨークの3人のイタロ・アメリカンの中から最初にナショナル・チャートに登場したのは、
「コニー・フランシス」

だったってなところ迄Upしたでゲス。
んで、今回は”ソノ”続きですヨ。
さて、「コニー・フランシス」が全米に知れ渡った頃、
「ボビー・ダーリン」

はどうしていたかというと、「デッカ」レーベルから「アトランティック」レーベルに移籍して自分の路線をどういった方向にするのか迷っていた時期でしたナ。
とはいえ、
”時代は「ロックンロール」!!!!!”
だったので、「ボビー」と「ドン・カーシュナー」の2人は”ソレ風”の曲を作ったんでゲス。
「PRTTY BETTY」
ガッハッハ・・・・・、「リトル・リチャード」の「トゥッティ・フルッティ」の真似ですかネ。
「DON’T CALL MY NAME」
こっちは「ファッツ・ドミノ」の「エイント・ザット・ア・シェイム」だもんなぁ。
そんな2曲をカップリングでリリースしたんだけど、全くヒットしなかったでゲス。
丁度コノ頃かなぁ、「アトランティック」レーベルに待ちに待っていた「リーバー」&「ストーラー」コンビがニューヨークにやって来るですナ。
んで、
「ザ・コースターズ」

のニューヨークにおける”初セッション”となるんだけど、コノ時に「ボビー・ダーリン」と「ドン・カーシュナー」が曲を提供しているんでゲス。
「WAIT A MINUTE」
ですナ。
以前に「ザ・コースターズ」がリリースした「サーチン」+「ヤング・ブラッド」ってな曲で、作家チームとしちゃぁ大失敗で、「ドン・カーシュナー」は作家の夢を早々と捨てて出版事業に変えたでゲス。
一方、
「ニール・セダカ」

も、マイナー・レーベルからレコードをリリースし続けていましたナ。
「RING A ROCKIN’」
「ジェリー・リー・ルイス」タイプの曲でゲス。
何か「ボビー・ダーリン」よりも「ニール・セダカ」の方が作曲能力は高い様に思えるのは俺だけでしょうかネ。
コノ「ニール」の「ロックンロール」はヒットせずに、「ボビー・ダーリン」が次にリリースした曲がヒットしたんでゲス。
「SPLISH SPLASH」
ギターは、
「アル・カイオラ」

で、遂にヒットが出た「ボビー・ダーリン」は「ロックンロール」路線を突っ走ったんですナ。
「MIGHTY MIGHTY MAN」
さて、「ボビー」よりも先にヒットを出した「コニー・フランシス」も第2弾をリリースするんでゲス。
「I’M SORRY I MADE YOU CRY」
自信が出て来たんでしょうかネ。
キチンと唄い上げているでゲス。
んが、「ポップ・チャート」36位ってところでしたナ。
なので第3弾にゃぁプレッシャーが掛かってきて、更にランクを落とした時にゃぁ・・・。
さぁ、ココで「ドン・カーシュナー」の登場でゲス。
出版事業を始めた「ドン」のところに契約したばかりのコンビがいるという事で、「ニール・セダカ」と「ハワード・グリーンフィールド」を連れてきて、ソノ場にゃぁ「ボビー・ダーリン」もいて、「ニール」と「ハワード」が持って来た色々な曲の中に「コニー」が気に入ったのあったんですナ。
「STUPID CUPID」(邦題「間抜けなキューピッド」)
後半に聴こえてくるピアノは「ニール・セダカ」自身が弾いているでゲス。
こうして「コニー・フランシス」はニューヨーク初の、
”女性ロックンローラー”
になったんだけど、”ソレ”よりもコノ時のセッションにゃぁ重要な出来事がありましたナ。
「間抜けな・・・」のアレンジをしたのは、
「チャック・セーグル」

で、彼は以前に「マーキュリー」レーベルのスタジオでアレンジの仕事をしていたんだけど、新しいプロデューサーの、
「モーティ・クラフト」

が呼んで来て、「間抜けな・・・」がご機嫌な「ロックンロール」に仕上がったのも「チャック・セーグル」のアレンジの力が大きかったんでゲス。
同じ日のセッションでもう1曲「ニール・セダカ」の曲がレコーディングされましたナ。
「FALLIN’」
ブルージーなムードは100%アレンジャーの「チャック・セーグル」の腕によるモノでゲス。
「間抜けな・・・」が「ポップ・チャート」14位、「フォーリン」が30位ってなランクはそんなに高くはなかったんだけど、「コニー・フランシス」は「ニール・セダカ」によって「ロックンロール」路線を始める事が出来たんですナ。
そして「ニール・セダカ」がアレンジャー「チャック・セーグル」と出会えた事はコノ後の「ニール」にとって非常に大きな出来事となるんでゲス。
さて、続きは次回となりますヨ。
んじゃぁ、コレにて。

(左から「ハワード・グリーンフィールド」、「ニール・セダカ」、「コニー・フランシス」)

前回「ボビー・ダーリン」、「コニー・フランシス」、「ニール・セダカ」ってなニューヨークの3人のイタロ・アメリカンの中から最初にナショナル・チャートに登場したのは、
「コニー・フランシス」

だったってなところ迄Upしたでゲス。
んで、今回は”ソノ”続きですヨ。
さて、「コニー・フランシス」が全米に知れ渡った頃、
「ボビー・ダーリン」

はどうしていたかというと、「デッカ」レーベルから「アトランティック」レーベルに移籍して自分の路線をどういった方向にするのか迷っていた時期でしたナ。
とはいえ、
”時代は「ロックンロール」!!!!!”
だったので、「ボビー」と「ドン・カーシュナー」の2人は”ソレ風”の曲を作ったんでゲス。
「PRTTY BETTY」
ガッハッハ・・・・・、「リトル・リチャード」の「トゥッティ・フルッティ」の真似ですかネ。
「DON’T CALL MY NAME」
こっちは「ファッツ・ドミノ」の「エイント・ザット・ア・シェイム」だもんなぁ。
そんな2曲をカップリングでリリースしたんだけど、全くヒットしなかったでゲス。
丁度コノ頃かなぁ、「アトランティック」レーベルに待ちに待っていた「リーバー」&「ストーラー」コンビがニューヨークにやって来るですナ。
んで、
「ザ・コースターズ」

のニューヨークにおける”初セッション”となるんだけど、コノ時に「ボビー・ダーリン」と「ドン・カーシュナー」が曲を提供しているんでゲス。
「WAIT A MINUTE」
ですナ。
以前に「ザ・コースターズ」がリリースした「サーチン」+「ヤング・ブラッド」ってな曲で、作家チームとしちゃぁ大失敗で、「ドン・カーシュナー」は作家の夢を早々と捨てて出版事業に変えたでゲス。
一方、
「ニール・セダカ」

も、マイナー・レーベルからレコードをリリースし続けていましたナ。
「RING A ROCKIN’」
「ジェリー・リー・ルイス」タイプの曲でゲス。
何か「ボビー・ダーリン」よりも「ニール・セダカ」の方が作曲能力は高い様に思えるのは俺だけでしょうかネ。
コノ「ニール」の「ロックンロール」はヒットせずに、「ボビー・ダーリン」が次にリリースした曲がヒットしたんでゲス。
「SPLISH SPLASH」
ギターは、
「アル・カイオラ」

で、遂にヒットが出た「ボビー・ダーリン」は「ロックンロール」路線を突っ走ったんですナ。
「MIGHTY MIGHTY MAN」
さて、「ボビー」よりも先にヒットを出した「コニー・フランシス」も第2弾をリリースするんでゲス。
「I’M SORRY I MADE YOU CRY」
自信が出て来たんでしょうかネ。
キチンと唄い上げているでゲス。
んが、「ポップ・チャート」36位ってところでしたナ。
なので第3弾にゃぁプレッシャーが掛かってきて、更にランクを落とした時にゃぁ・・・。
さぁ、ココで「ドン・カーシュナー」の登場でゲス。
出版事業を始めた「ドン」のところに契約したばかりのコンビがいるという事で、「ニール・セダカ」と「ハワード・グリーンフィールド」を連れてきて、ソノ場にゃぁ「ボビー・ダーリン」もいて、「ニール」と「ハワード」が持って来た色々な曲の中に「コニー」が気に入ったのあったんですナ。
「STUPID CUPID」(邦題「間抜けなキューピッド」)
後半に聴こえてくるピアノは「ニール・セダカ」自身が弾いているでゲス。
こうして「コニー・フランシス」はニューヨーク初の、
”女性ロックンローラー”
になったんだけど、”ソレ”よりもコノ時のセッションにゃぁ重要な出来事がありましたナ。
「間抜けな・・・」のアレンジをしたのは、
「チャック・セーグル」

で、彼は以前に「マーキュリー」レーベルのスタジオでアレンジの仕事をしていたんだけど、新しいプロデューサーの、
「モーティ・クラフト」

が呼んで来て、「間抜けな・・・」がご機嫌な「ロックンロール」に仕上がったのも「チャック・セーグル」のアレンジの力が大きかったんでゲス。
同じ日のセッションでもう1曲「ニール・セダカ」の曲がレコーディングされましたナ。
「FALLIN’」
ブルージーなムードは100%アレンジャーの「チャック・セーグル」の腕によるモノでゲス。
「間抜けな・・・」が「ポップ・チャート」14位、「フォーリン」が30位ってなランクはそんなに高くはなかったんだけど、「コニー・フランシス」は「ニール・セダカ」によって「ロックンロール」路線を始める事が出来たんですナ。
そして「ニール・セダカ」がアレンジャー「チャック・セーグル」と出会えた事はコノ後の「ニール」にとって非常に大きな出来事となるんでゲス。
さて、続きは次回となりますヨ。
んじゃぁ、コレにて。

(左から「ハワード・グリーンフィールド」、「ニール・セダカ」、「コニー・フランシス」)

2024年1月2日 10時03分25秒 (Tue)
ニューヨークの3人 (パート1)
HAPPY & LUCKY NEW YEAR!!!!!
本年もどうぞ宜しくお願いします。
サァサァ、今年最初のUpは、
「ボビー・ダーリン」

「コニー・フランシス」

「ニール・セダカ」

ってなイタロ・アメリカン(「ニール・セダカ」はユダヤ系説あり)3人に絞って、”コノ”3人の関係が「ニューヨーク・ポップス」、更には”1960年代「ポップス」”を作っていく過程をUpしようと思うでゲス。
3人については以前の、
”「エルヴィス」登場の影響と波及 (パート15)”
で幾らかUpしたんだけど、今回はもう少し細かく説明をしますネ。
先ずは”「エルヴィス」登場の・・・”のおさらいからで、
「SPLISH SPLASH」
で、ニューヨーク最初の”ロックンローラー”となった「ボビー・ダーリン」はブロンクスの学校時代に知り合った、
「ドン・カーシュナー」

と作家コンビを組んで音楽ビジネスをスタートしましたナ。
んで、1955年にレコード・デビューしていた「コニー・フランシス」とコマーシャルの仕事をしていた時に出会うんでゲス。
「コニー」のデビュー曲は、
「FREDDY」
(オリジナルはモノラルですヨ。)
で、4枚目のシングルが「ボビー・ダーリン」&「ドン・カーシュナー」の曲でしたナ。
「MY FIRST REAL LOVE」
バック・コーラスは「ボビー・ダーリン」でゲス。
全くヒットしませんでしたナ。
そうこうしているうちに、「ボビー」もレコード・デビューする事となって、メジャーの「デッカ」レーベルからの、
「SILLY WILLY」
で、4枚のシングル盤をリリースしたんだけど、全くヒットしなかったでゲス。
もう1人の「ニール・セダカ」は同じニューヨークでもブルックリンなので、「ボビー」や「コニー」とは住んでいる場所が違いましたナ。
もっとも「コニー」はニュージャージー州ニューアーク生まれで仕事でニューヨークに来ていたんだけどネ。
「ニール」は同じアパートに住んでいた、
「ハワード・グリーンフィールド」

とコンビを組む事になるんでゲス。
エッと、1952年の事ですナ。
2人が同じアパートだったってのは”出来過ぎ”な話なんだよなぁ。
同じ学校とか近所に住んでいたとかはよくある話なんだけどネ。
んで、「ハワード」が先輩だったからか、出版社に売り込みに出回っていたみたいでゲス。
「プログレッシブ・ミュージック」ってな会社があって、2人の曲を買ってくれましたナ。
ソノ曲を「アトランティック」レーベルの、
「ザ・クローヴァーズ」

がレコーディングするんでゲス。
「BRING ME LOVE」
コノ2人の才能を認めた出版社の、
「ジェリー・ウェックスラー」

は、もう1曲「ニール」と「ハワード」の曲を取り上げて女性グループの、
「ザ・クッキーズ」

にレコーディングさせましたナ。
「PASSING TIME」
「ザ・クッキーズ」と「ニール」は6年後に再会する事になるんだけど、先出の「ブリング・ミー・・・」と「パッシング・・・」の2曲共B面で、言うなれば”数合わせ”のB面作家として使われたんでゲス。
「ニール」は当時ハイスクール在学中で、「エイブラハム・リンカーン・ハイスクール」ってなブルックリンにある学校に行ってましたナ。
んで、学校の同僚と組んだグループが、
「ザ・トーケンズ」

「I LOVE MY BABY」
でゲス。
「ザ・トーケンズ」もヒットが出るのが5年後の事ですナ。
「コニー・フランシス」は「MGM」レーベル、「ボビー・ダーリン」は「デッカ」レーベルと、メジャー会社だったんだけど、「ニール・セダカ」は「メルバ」レーベルってなマイナー会社からのスタートだったでゲス。
3人にとってはスターへの道は未だまだ遠かったんでしたナ。
翌57年、「コニー・フランシス」にとっては試練の年となったんでゲス。
っていうのも、デビューして3年間で9枚のシングル盤をリリースしたんだけど、1曲もヒットしなかったんですヨ。
シビレを切らした「MGM」レーベルは、次の10枚目がヒットしなかったら契約を打ち切るって言って来たんですナ。
んでネ、「コニー」の父親が、
「コニー、18曲も無駄にしてきただろ、もし次の曲が最後になったなら私の好きな曲を唄ってくれないか。」
って頼んだんだそうでゲス。
どうやら30年以上も前の曲らしくって「コニー」は、
「こんな古い曲は嫌ヨ。」
って断ったんだけど、結局押し切られてレコーディングしたんでしたナ。
んでも、結果的に大ヒットとなって「コニー」は有名になったんでゲス。
「WHO’S SORRY NOW」
コノ曲がチャートを賑わしていたのは1958年4月頃なので、既に、
「マーティ・ロビンス」

の”「ポップ・カントリー」調”の曲は市民権を得ていた時期で、「ロッカ・バラード」と「ポップ・カントリー」を足した様なアレンジが成功の原因だったんじゃぁないかと考えますナ。
ってな訳で、「ボビー・ダーリン」、「コニー・フランシス」、「ニール・セダカ」の3人の中で最初に全米に登場したのは「コニー・フランシス」だったんでゲス。
今回はココ迄にしましょうネ。
続きは次回でゲス。
では、又。



本年もどうぞ宜しくお願いします。
サァサァ、今年最初のUpは、
「ボビー・ダーリン」

「コニー・フランシス」

「ニール・セダカ」

ってなイタロ・アメリカン(「ニール・セダカ」はユダヤ系説あり)3人に絞って、”コノ”3人の関係が「ニューヨーク・ポップス」、更には”1960年代「ポップス」”を作っていく過程をUpしようと思うでゲス。
3人については以前の、
”「エルヴィス」登場の影響と波及 (パート15)”
で幾らかUpしたんだけど、今回はもう少し細かく説明をしますネ。
先ずは”「エルヴィス」登場の・・・”のおさらいからで、
「SPLISH SPLASH」
で、ニューヨーク最初の”ロックンローラー”となった「ボビー・ダーリン」はブロンクスの学校時代に知り合った、
「ドン・カーシュナー」

と作家コンビを組んで音楽ビジネスをスタートしましたナ。
んで、1955年にレコード・デビューしていた「コニー・フランシス」とコマーシャルの仕事をしていた時に出会うんでゲス。
「コニー」のデビュー曲は、
「FREDDY」
(オリジナルはモノラルですヨ。)
で、4枚目のシングルが「ボビー・ダーリン」&「ドン・カーシュナー」の曲でしたナ。
「MY FIRST REAL LOVE」
バック・コーラスは「ボビー・ダーリン」でゲス。
全くヒットしませんでしたナ。
そうこうしているうちに、「ボビー」もレコード・デビューする事となって、メジャーの「デッカ」レーベルからの、
「SILLY WILLY」
で、4枚のシングル盤をリリースしたんだけど、全くヒットしなかったでゲス。
もう1人の「ニール・セダカ」は同じニューヨークでもブルックリンなので、「ボビー」や「コニー」とは住んでいる場所が違いましたナ。
もっとも「コニー」はニュージャージー州ニューアーク生まれで仕事でニューヨークに来ていたんだけどネ。
「ニール」は同じアパートに住んでいた、
「ハワード・グリーンフィールド」

とコンビを組む事になるんでゲス。
エッと、1952年の事ですナ。
2人が同じアパートだったってのは”出来過ぎ”な話なんだよなぁ。
同じ学校とか近所に住んでいたとかはよくある話なんだけどネ。
んで、「ハワード」が先輩だったからか、出版社に売り込みに出回っていたみたいでゲス。
「プログレッシブ・ミュージック」ってな会社があって、2人の曲を買ってくれましたナ。
ソノ曲を「アトランティック」レーベルの、
「ザ・クローヴァーズ」

がレコーディングするんでゲス。
「BRING ME LOVE」
コノ2人の才能を認めた出版社の、
「ジェリー・ウェックスラー」

は、もう1曲「ニール」と「ハワード」の曲を取り上げて女性グループの、
「ザ・クッキーズ」

にレコーディングさせましたナ。
「PASSING TIME」
「ザ・クッキーズ」と「ニール」は6年後に再会する事になるんだけど、先出の「ブリング・ミー・・・」と「パッシング・・・」の2曲共B面で、言うなれば”数合わせ”のB面作家として使われたんでゲス。
「ニール」は当時ハイスクール在学中で、「エイブラハム・リンカーン・ハイスクール」ってなブルックリンにある学校に行ってましたナ。
んで、学校の同僚と組んだグループが、
「ザ・トーケンズ」

「I LOVE MY BABY」
でゲス。
「ザ・トーケンズ」もヒットが出るのが5年後の事ですナ。
「コニー・フランシス」は「MGM」レーベル、「ボビー・ダーリン」は「デッカ」レーベルと、メジャー会社だったんだけど、「ニール・セダカ」は「メルバ」レーベルってなマイナー会社からのスタートだったでゲス。
3人にとってはスターへの道は未だまだ遠かったんでしたナ。
翌57年、「コニー・フランシス」にとっては試練の年となったんでゲス。
っていうのも、デビューして3年間で9枚のシングル盤をリリースしたんだけど、1曲もヒットしなかったんですヨ。
シビレを切らした「MGM」レーベルは、次の10枚目がヒットしなかったら契約を打ち切るって言って来たんですナ。
んでネ、「コニー」の父親が、
「コニー、18曲も無駄にしてきただろ、もし次の曲が最後になったなら私の好きな曲を唄ってくれないか。」
って頼んだんだそうでゲス。
どうやら30年以上も前の曲らしくって「コニー」は、
「こんな古い曲は嫌ヨ。」
って断ったんだけど、結局押し切られてレコーディングしたんでしたナ。
んでも、結果的に大ヒットとなって「コニー」は有名になったんでゲス。
「WHO’S SORRY NOW」
コノ曲がチャートを賑わしていたのは1958年4月頃なので、既に、
「マーティ・ロビンス」

の”「ポップ・カントリー」調”の曲は市民権を得ていた時期で、「ロッカ・バラード」と「ポップ・カントリー」を足した様なアレンジが成功の原因だったんじゃぁないかと考えますナ。
ってな訳で、「ボビー・ダーリン」、「コニー・フランシス」、「ニール・セダカ」の3人の中で最初に全米に登場したのは「コニー・フランシス」だったんでゲス。
今回はココ迄にしましょうネ。
続きは次回でゲス。
では、又。



プロフィール

- 自己紹介
- WW2以降1970年代迄の”映画”、”音楽”、”ファッション”等などが大好きな、
”「BEAT」野郎”
で、特に1950年代が大好物でゲス。
岐阜で「MEMPHIS」っていうアメカジ店を2010年1月末日迄やってましたが、現在は家業をついで”製帽業”をしてますヨ。(「CA4LA」、「ポール・スチュアート」、「ザ・スコッチ・ハウス」、「コムサ・デ・モード」等より仕事を頂いているでゲス。)
他にも個人的に「MEMPHIS工房」として”帽子”製作、販売していますヨ。(コチラは出来上がり次第「作品集」のコーナーに随時Upしますのでご覧くださいませ、ませ。 詳細のお問い合わせ承りますので、お気軽にどうぞ。)
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