2024年10月 アーカイブ
2024年10月21日 13時05分19秒 (Mon)
”コーラス”モノ (パート5)
いつもは10月に入ると来季春夏物の製作になるんだけど、今年は6月から作っている今季冬物の「CA4LA」の商品の内のアル品番が”激売れ”の様で昨日迄かかって、やっと終わって納品完了したでゲス。
んで、いったい幾つ作ったのかと何度かに分けて納品した納品書を合計したらナント”2300個”でしたナ。
勿論、”コレ”を作っている途中で他の帽子も差し込んで製作していたのでコノ期間は”ソレ”以上の量を作ったでゲス。
納期に間に合わないと取引先に迷惑をかけちゃうから7月から朝6時より仕事を開始して作ってましたナ。
まぁ、近況はこんなところでゲス。
さて、本題にするとしましょうネ。
今回は1950年代のウエストコーストの”コーラス”モノ事情のUpでゲス。
既に、
「ジェリー・リーバー」と「マイク・ストーラー」

の活動、更にゃぁニューオリンズのドラマー、
「アール・パーマー」

が活動の場をLAに移した事が”LA「ロックンロール」サウンド”の基本になったって事は以前にUpしましたナ。
んで、チョイと1950年代初期に遡りまして、当時の大物、
「ジョニー・オーティス」

が作曲、プロデュースした曲から開始しようかと思いますヨ。
「EVERY BEAT OF MY HEAT」
「ジョニー・オーティス」が見出した、
「ザ・ロイヤルズ」

に「オーティス」が作った曲でゲス。
コノ「ザ・ロイヤルズ」は後に、
「ザ・ミッドナイターズ」

になって「ザ・トゥイスト」等のヒット曲をリリースしたグループですナ。
さて、「ザ・ロイヤルズ」をプロデュースした「ジョニー・オーティス」なんだけど、”プロデューサー”、”作曲家”、”アレンジャー”、”ドラマー”、”ヴィブラホーン・プレイヤー”ってな色々やっていて、「ハウンド・ドッグ」のオリジナル曲のドラムも「オーティス」が演っていたって事は、
”「エルヴィス」の登場の影響と波及 (パート13)”
んところでUpしたでゲス。
”ソレ”だけでも充分な”マルチ・タレント”なのに、更に「バレル・ハウス」ってなクラブ経営にもタッチしていたんですナ。
LAのワッツにあった「バレル・ハウス」で1949年から活動をしていたのが、
「ザ・ロビンズ」

で、
「TURKEY HOP」
は、1950年のレコーディングでゲス。
「ザ・ロビンズ」も「オーティス」が有名にしたグループですナ。
次の曲も「オーティス」がプロデュース、「リーバー & ストーラー」作詞、作曲の、
「THAT’S WHAT THE GOOD BOOK SAY」
イントロのヴィブラホーンが「ジョニー・オーティス」で、「リーバー & ストーラー」が「ザ・ロビンズ」に最初に作った曲でゲス。
レーベルは、
「モダン」レーベル

で、当時のウエストコーストの「リズムンブルーズ」専門レーベルじゃぁ最大の会社で、セールス担当をしていたのが、
「レスター・シル」

そして、後に「ザ・コースターズ」ってなるのがコノ「ザ・ロビンズ」ですナ。
「ザ・ロビンズ」に続いての登場は「バレル・ハウス」があったワッツで結成された、
「ザ・ハリウッド・フレームズ」

で、メンバーに「ロバート・ジェームズ・バード」ってな、後にソロになった、
「ボビー・デイ」

が在籍していたグループでゲス。
彼等は「ザ・ハリウッド・フレームズ」の前に「ザ・フォー・フレームズ」と名乗っていましたナ。
ソノ頃の曲でゲス。
「TABARIN」
1951年にリリースされた曲で、作者は、
「マレー・ウィルソン」

で、彼は「ザ・ビーチボーイズ」の、
「ブライアン」、「カール」、「デニス」の「ウィルソン」兄弟

の父親でしたナ。
話は戻って「ザ・ハリウッド・フレームズ」の次の曲は、
「BUZZ BUZZ BUZZ」
1957年にリリースして「ポップ・チャート」11位、「リズムンブルーズ・チャート」5位になったヒット曲なんだけど、何だか聴いた事のあるサウンドなんだけど、作者はメンバーの「ボビー・デイ」で彼が同年に独立して自分で作った曲でデビューしたんでゲス。
「LITTLE BITTY PRETTY ONE」
バック・コーラスが「ザ・サテライツ」って事なんだけど、「ザ・ハリウッド・フレームズ」のメンバーを中心とした特別編成のグループでしたナ。
「ROCK−IN ROBIN」
「OVER AND OVER」
「ロッキン・ロビン」と「オーヴァー・アンド・オーヴァー」はカップリングで、「ロッキン・・・」は「ポップ・チャート」2位の大ヒット、「オーヴァー・アンド・・・」は「ポップ・チャート」41位だったでゲス。
両曲共ドラムは先出の「アール・パーマー」ですナ。
続いては、
「ザ・ランプライターズ」

で、
「YUM YUM」
1954年リリースした曲でゲス。
何だか、
「ザ・ドリフターズ」

の、
「HONEY LOVE」
の歌詞を変えた曲みたいだと思ったのは俺だけでしょうかネ。
んでネ、「ザ・ランプライターズ」にゃぁ、
「サーストン・ハリス」

が在籍していて、彼も「ボビー・デイ」と同じく1957年に独立してソロになるんでゲス。
んで、ソロ・デビュー曲に選んだのが、「ボビー・デイ」が作って自分でリリースした「リトル・ビティ・プリティ・ワン」でしたナ。
オリジナルの「ボビー・デイ」は「ポップ・チャート」57位だったんだけど「サーストン・ハリス」のヴァージョンは「ポップ・チャート」6位ってな大ヒットだったでゲス。
イントロのバス・ドラムが印象的なんだけど、”コノ”ドラムも「アール・パーマー」ですナ。
エッと、「ボビー・デイ」のヴァージョンはドラムは「アール・パーマー」じゃぁないんでゲス。
んで、次の曲から「アール・パーマー」を起用してリリースしたのが「ロッキン・ロビン」、「オーヴァー・アンド・オーヴァー」でヒットしたってな訳でしたナ。
「サーストン・ハリス」のバック・コーラスが「ザ・シャープス」ってクレジットされているんだけど、コチラも殆ど「ザ・ランプライターズ」のメンバーだったでゲス。
んで、そのまま「ザ・シャープス」としてもレコード・デビューするんですナ。
「HAVE LOVE, WILL TRAVEL」
ギターの感じで判るんだけど、
「デュエイン・エディ」

と彼のバンド「ザ・レベルズ」がバックを演っていて、「ザ・シャープス」のマネージャーは先出の「レスター・シル」で、ニューヨークへ行っちゃった、
「ザ・コースターズ」

のマネージャーもやっていたので「ザ・シャープス」を、
”ウエストコーストの「ザ・コースターズ」”(元々ウエストコーストからニューヨークにやって来たから”コースターズ”って名前なのにコノ表現は変な感じでゲス。)
ってな感じでリリースしたんでしょうかネ。
あと、「デュエイン・エディ」のマネージャーでもあったので、こういった顔合わせになったんだと思うでゲス。
「デュエイン・エディ」のセッションで”奇声”が聴こえてくる曲があるんだけど、担当していたのが「ザ・シャープス」でしたナ。
んで、「ザ・シャープス」はメンバーをソノ儘でグループ名を、
「ザ・リヴィングトーンズ」

と変えたんでゲス。
「PAPA−OOM−MOW−MOW」
1962年「ポップ・チャート」48位だったんだけど”コミック・ソング”として”定番中の定番”になったでゲス。
”パパ”をリリースしたからにゃぁ”ママ”もネ。
「MAMA−OOM−MOW−MOW」
ガッハッハ・・・!!!!!
「ボビー・デイ」は「ザ・ハリウッド・フレームズ」、「サーストン・ハリス」は「ザ・ランプライターズ」ってな具合に最初はグループに属していてソノ後に独立するっていう殆どのソロ・シンガーのパターンですナ。
最初からソロ・シンガーを目指した人ってのは滅多にいなかったでゲス。
今回はココ迄ですナ。
続きは次回でゲス。
んじゃぁ、コレにて。








(後列左から「レスター・シル」、「ジェリー・ウェックスラー」、「ザ・コースターズ」の4人、「アーメット・アーティガン」、前列左「ジェリー・リーバー」、右「マイク・ストーラー」)
んで、いったい幾つ作ったのかと何度かに分けて納品した納品書を合計したらナント”2300個”でしたナ。
勿論、”コレ”を作っている途中で他の帽子も差し込んで製作していたのでコノ期間は”ソレ”以上の量を作ったでゲス。
納期に間に合わないと取引先に迷惑をかけちゃうから7月から朝6時より仕事を開始して作ってましたナ。
まぁ、近況はこんなところでゲス。
さて、本題にするとしましょうネ。
今回は1950年代のウエストコーストの”コーラス”モノ事情のUpでゲス。
既に、
「ジェリー・リーバー」と「マイク・ストーラー」

の活動、更にゃぁニューオリンズのドラマー、
「アール・パーマー」

が活動の場をLAに移した事が”LA「ロックンロール」サウンド”の基本になったって事は以前にUpしましたナ。
んで、チョイと1950年代初期に遡りまして、当時の大物、
「ジョニー・オーティス」

が作曲、プロデュースした曲から開始しようかと思いますヨ。
「EVERY BEAT OF MY HEAT」
「ジョニー・オーティス」が見出した、
「ザ・ロイヤルズ」

に「オーティス」が作った曲でゲス。
コノ「ザ・ロイヤルズ」は後に、
「ザ・ミッドナイターズ」

になって「ザ・トゥイスト」等のヒット曲をリリースしたグループですナ。
さて、「ザ・ロイヤルズ」をプロデュースした「ジョニー・オーティス」なんだけど、”プロデューサー”、”作曲家”、”アレンジャー”、”ドラマー”、”ヴィブラホーン・プレイヤー”ってな色々やっていて、「ハウンド・ドッグ」のオリジナル曲のドラムも「オーティス」が演っていたって事は、
”「エルヴィス」の登場の影響と波及 (パート13)”
んところでUpしたでゲス。
”ソレ”だけでも充分な”マルチ・タレント”なのに、更に「バレル・ハウス」ってなクラブ経営にもタッチしていたんですナ。
LAのワッツにあった「バレル・ハウス」で1949年から活動をしていたのが、
「ザ・ロビンズ」

で、
「TURKEY HOP」
は、1950年のレコーディングでゲス。
「ザ・ロビンズ」も「オーティス」が有名にしたグループですナ。
次の曲も「オーティス」がプロデュース、「リーバー & ストーラー」作詞、作曲の、
「THAT’S WHAT THE GOOD BOOK SAY」
イントロのヴィブラホーンが「ジョニー・オーティス」で、「リーバー & ストーラー」が「ザ・ロビンズ」に最初に作った曲でゲス。
レーベルは、
「モダン」レーベル

で、当時のウエストコーストの「リズムンブルーズ」専門レーベルじゃぁ最大の会社で、セールス担当をしていたのが、
「レスター・シル」

そして、後に「ザ・コースターズ」ってなるのがコノ「ザ・ロビンズ」ですナ。
「ザ・ロビンズ」に続いての登場は「バレル・ハウス」があったワッツで結成された、
「ザ・ハリウッド・フレームズ」

で、メンバーに「ロバート・ジェームズ・バード」ってな、後にソロになった、
「ボビー・デイ」

が在籍していたグループでゲス。
彼等は「ザ・ハリウッド・フレームズ」の前に「ザ・フォー・フレームズ」と名乗っていましたナ。
ソノ頃の曲でゲス。
「TABARIN」
1951年にリリースされた曲で、作者は、
「マレー・ウィルソン」

で、彼は「ザ・ビーチボーイズ」の、
「ブライアン」、「カール」、「デニス」の「ウィルソン」兄弟

の父親でしたナ。
話は戻って「ザ・ハリウッド・フレームズ」の次の曲は、
「BUZZ BUZZ BUZZ」
1957年にリリースして「ポップ・チャート」11位、「リズムンブルーズ・チャート」5位になったヒット曲なんだけど、何だか聴いた事のあるサウンドなんだけど、作者はメンバーの「ボビー・デイ」で彼が同年に独立して自分で作った曲でデビューしたんでゲス。
「LITTLE BITTY PRETTY ONE」
バック・コーラスが「ザ・サテライツ」って事なんだけど、「ザ・ハリウッド・フレームズ」のメンバーを中心とした特別編成のグループでしたナ。
「ROCK−IN ROBIN」
「OVER AND OVER」
「ロッキン・ロビン」と「オーヴァー・アンド・オーヴァー」はカップリングで、「ロッキン・・・」は「ポップ・チャート」2位の大ヒット、「オーヴァー・アンド・・・」は「ポップ・チャート」41位だったでゲス。
両曲共ドラムは先出の「アール・パーマー」ですナ。
続いては、
「ザ・ランプライターズ」

で、
「YUM YUM」
1954年リリースした曲でゲス。
何だか、
「ザ・ドリフターズ」

の、
「HONEY LOVE」
の歌詞を変えた曲みたいだと思ったのは俺だけでしょうかネ。
んでネ、「ザ・ランプライターズ」にゃぁ、
「サーストン・ハリス」

が在籍していて、彼も「ボビー・デイ」と同じく1957年に独立してソロになるんでゲス。
んで、ソロ・デビュー曲に選んだのが、「ボビー・デイ」が作って自分でリリースした「リトル・ビティ・プリティ・ワン」でしたナ。
オリジナルの「ボビー・デイ」は「ポップ・チャート」57位だったんだけど「サーストン・ハリス」のヴァージョンは「ポップ・チャート」6位ってな大ヒットだったでゲス。
イントロのバス・ドラムが印象的なんだけど、”コノ”ドラムも「アール・パーマー」ですナ。
エッと、「ボビー・デイ」のヴァージョンはドラムは「アール・パーマー」じゃぁないんでゲス。
んで、次の曲から「アール・パーマー」を起用してリリースしたのが「ロッキン・ロビン」、「オーヴァー・アンド・オーヴァー」でヒットしたってな訳でしたナ。
「サーストン・ハリス」のバック・コーラスが「ザ・シャープス」ってクレジットされているんだけど、コチラも殆ど「ザ・ランプライターズ」のメンバーだったでゲス。
んで、そのまま「ザ・シャープス」としてもレコード・デビューするんですナ。
「HAVE LOVE, WILL TRAVEL」
ギターの感じで判るんだけど、
「デュエイン・エディ」

と彼のバンド「ザ・レベルズ」がバックを演っていて、「ザ・シャープス」のマネージャーは先出の「レスター・シル」で、ニューヨークへ行っちゃった、
「ザ・コースターズ」

のマネージャーもやっていたので「ザ・シャープス」を、
”ウエストコーストの「ザ・コースターズ」”(元々ウエストコーストからニューヨークにやって来たから”コースターズ”って名前なのにコノ表現は変な感じでゲス。)
ってな感じでリリースしたんでしょうかネ。
あと、「デュエイン・エディ」のマネージャーでもあったので、こういった顔合わせになったんだと思うでゲス。
「デュエイン・エディ」のセッションで”奇声”が聴こえてくる曲があるんだけど、担当していたのが「ザ・シャープス」でしたナ。
んで、「ザ・シャープス」はメンバーをソノ儘でグループ名を、
「ザ・リヴィングトーンズ」

と変えたんでゲス。
「PAPA−OOM−MOW−MOW」
1962年「ポップ・チャート」48位だったんだけど”コミック・ソング”として”定番中の定番”になったでゲス。
”パパ”をリリースしたからにゃぁ”ママ”もネ。
「MAMA−OOM−MOW−MOW」
ガッハッハ・・・!!!!!
「ボビー・デイ」は「ザ・ハリウッド・フレームズ」、「サーストン・ハリス」は「ザ・ランプライターズ」ってな具合に最初はグループに属していてソノ後に独立するっていう殆どのソロ・シンガーのパターンですナ。
最初からソロ・シンガーを目指した人ってのは滅多にいなかったでゲス。
今回はココ迄ですナ。
続きは次回でゲス。
んじゃぁ、コレにて。








(後列左から「レスター・シル」、「ジェリー・ウェックスラー」、「ザ・コースターズ」の4人、「アーメット・アーティガン」、前列左「ジェリー・リーバー」、右「マイク・ストーラー」)
2024年10月7日 9時12分54秒 (Mon)
”コーラス”モノ (パート4)
今回は、前回Upしたクイーンズの隣のブルックリンにから始めてみようと思うでゲス。
先ずは、
「ザ・フォー・フェローズ」

の、
「SOLDIER BOY」
1953年朝鮮戦争から帰還してグループを結成してソノ時の体験を基にして作ったのが”コノ”曲で、「エルヴィス」も軍隊から除隊して復帰した時のアルバムの、
「ELVIS IS BACK!」

の中でも唄ってましたナ。
続いては、
「ザ・デュポンツ」

の、
「YOU」
リード・ヴォーカルは「ジェローム・アンソニー・グルーダイン」で、後の「リトル・アンソニー」で彼が結成したグループが、
「ジ・インペリアルズ」

で、
「TEARS ON MY PILLOW」
1958年「リズムンブルーズ・チャート」2位の大ヒットでゲス。
続いては、
「ザ・チップス」

の、
「RUBBER BISCUIT」
何だか”呪文”みたくな、こういったノベルティー曲が登場してきたのが1955年前後の特徴ですナ。
ニューヨークにおける”ノベルティー「ドゥ・ワップ」”の原点となったのが、
「ザ・キャディラックス」

の、
「SPEEDO」
で、1955年リリース、翌56年「リズムンブルーズ・チャート」3位の大ヒットだったでゲス。
俺ネ、「ザ・キャディラックス」だと、
「ZOOM」
と、
「MY GIRLFRIEND」
が大好きだなぁ。
先出の「ズーム」の”ダン・ビ・ドゥ・ビ・ドゥビドゥビ・ダン・ダン・・・”みたくなコーラスのフレーズを「大瀧詠一」殿は”日本のお囃子言葉”に例えたんだけど、俺も大賛成な表現だと思うでゲス。
色々な”言葉”、”音”の組み合わせ等、バラエティー度が増してきたのも1955年前後のコーラス・グループの特徴でしたナ。
さて次は、ブルックリンからマンハッタンへ移るでゲス。
日本のサンドウィッチマンの事を唄った曲で、
「RANG TANG DING DONG (I AM THE JAPANESE SANDMAN)」
「ザ・セローズ」

で、奇妙な声をエコー処理をするってな当時としちゃぁ画期的なアイデアだった様ですナ。
”お囃子言葉”をメインにしたサウンドが段々増えてきて、後に流れを受け継いで出来たのが、
「ジ・エドセルズ」

の、
「RAMA LAMA DING DONG」
で、こういったタイプの曲が”60’sポップス”の基調となって更に発展していったんでゲス。
1950年代も中期になると、いよいよボストンからもグループが登場してきましたナ。
「ザ・ジー・クレフツ」

の、
「KA−DING DONG」
1956年「ポップ・チャート」24位、「リズムンブルーズ・チャート」9位のヒットでボストン出身のグループとして初のナショナル・チャートに登場したグループと言われているでゲス。
続いては、ペンシルベニア州ピッツバーグの、
「ザ・デル・ヴァイキングス」

で、
「COME GO WITH ME」
1957年「ポップ・チャート」4位、「リズムンブルーズ・チャート」2位の大ヒットでしたナ。
最初はピッツバーグの小さなレコード会社の、
「フィー・ビー」レーベル

からリリースされたのを大手「ドット」レーベルが買い取って全米ヒットとなったんでゲス。

彼等はピッツバーグのグループなんだけど、出身地は色々?
っていうのも、彼等はピッツバーグに駐留する”アメリカ空軍”の隊員で、結成当初の1955年はメンバー全員が黒人だったんだけど、軍隊特有の人事移動等でグループ初の白人メンバー「デヴィッド・レーシー」が加入したり、後にソロになって、
「SHORT ON LOVE」(邦題「恋はスバヤク」)
をヒットさせて日本でも知られた、
「ガス・バッカス」

が加入したりしたグループですナ。

今回のココ迄ズ~ッと黒人のグループばかりだったんだけど、「ザ・デル・ヴァイキングス」ってな”黒人白人混交”のグループによって白人が登場したんだけど、まぁ「ドゥ・ワップ」じゃぁないんだけど1954年の、
「ザ・クリュー・カッツ」

の、
「SH−BOOM」
が、1954年「ポップ・チャート」1位の大ヒットになって、何とも言えない”白人カヴァー”とはいえ無視出来ない状況になって、ソノ流れにブルックリンの、
「ザ・トーケンズ」

が登場したんでゲス。
「I LOVE MY BABY」
「WHILE I DREAM」
「ニール・セダカ」在籍中の「ザ・トーケンズ」なんだけど、全くヒットしませんでしたナ。
ブロンクスのベルモント・アベニューから「ニール・セダカ」よりも先に白人グループが登場したでゲス。
んで、”ソノ”彼等が「ホワイト・ドゥ・ワップ」の幕を切って落としましたナ。
「ディオン & ザ・ベルモンツ」

「I WONDER WHY」
1958年「ポップ・チャート」22位だったんだけど、リード・ヴォーカルの、
「ディオン・ディムーチ」

はニューヨークの音楽ファンのアイドルとなって、翌59年に決定打となった曲がヒットしたんでゲス。
「A TEENAGER IN LOVE」
1956年「フランキー・ライモン」率いる「ザ・ティーンネイジャーズ」から「ディオン & ザ・ベルモンツ」の「ア・ティーンネイジャー・イン・ラヴ」と「ドゥ・ワップ」もティーンエイジャーの音楽となったんでしたナ。
今回は以上でゲス。
んじゃぁ又。



先ずは、
「ザ・フォー・フェローズ」

の、
「SOLDIER BOY」
1953年朝鮮戦争から帰還してグループを結成してソノ時の体験を基にして作ったのが”コノ”曲で、「エルヴィス」も軍隊から除隊して復帰した時のアルバムの、
「ELVIS IS BACK!」

の中でも唄ってましたナ。
続いては、
「ザ・デュポンツ」

の、
「YOU」
リード・ヴォーカルは「ジェローム・アンソニー・グルーダイン」で、後の「リトル・アンソニー」で彼が結成したグループが、
「ジ・インペリアルズ」

で、
「TEARS ON MY PILLOW」
1958年「リズムンブルーズ・チャート」2位の大ヒットでゲス。
続いては、
「ザ・チップス」

の、
「RUBBER BISCUIT」
何だか”呪文”みたくな、こういったノベルティー曲が登場してきたのが1955年前後の特徴ですナ。
ニューヨークにおける”ノベルティー「ドゥ・ワップ」”の原点となったのが、
「ザ・キャディラックス」

の、
「SPEEDO」
で、1955年リリース、翌56年「リズムンブルーズ・チャート」3位の大ヒットだったでゲス。
俺ネ、「ザ・キャディラックス」だと、
「ZOOM」
と、
「MY GIRLFRIEND」
が大好きだなぁ。
先出の「ズーム」の”ダン・ビ・ドゥ・ビ・ドゥビドゥビ・ダン・ダン・・・”みたくなコーラスのフレーズを「大瀧詠一」殿は”日本のお囃子言葉”に例えたんだけど、俺も大賛成な表現だと思うでゲス。
色々な”言葉”、”音”の組み合わせ等、バラエティー度が増してきたのも1955年前後のコーラス・グループの特徴でしたナ。
さて次は、ブルックリンからマンハッタンへ移るでゲス。
日本のサンドウィッチマンの事を唄った曲で、
「RANG TANG DING DONG (I AM THE JAPANESE SANDMAN)」
「ザ・セローズ」

で、奇妙な声をエコー処理をするってな当時としちゃぁ画期的なアイデアだった様ですナ。
”お囃子言葉”をメインにしたサウンドが段々増えてきて、後に流れを受け継いで出来たのが、
「ジ・エドセルズ」

の、
「RAMA LAMA DING DONG」
で、こういったタイプの曲が”60’sポップス”の基調となって更に発展していったんでゲス。
1950年代も中期になると、いよいよボストンからもグループが登場してきましたナ。
「ザ・ジー・クレフツ」

の、
「KA−DING DONG」
1956年「ポップ・チャート」24位、「リズムンブルーズ・チャート」9位のヒットでボストン出身のグループとして初のナショナル・チャートに登場したグループと言われているでゲス。
続いては、ペンシルベニア州ピッツバーグの、
「ザ・デル・ヴァイキングス」

で、
「COME GO WITH ME」
1957年「ポップ・チャート」4位、「リズムンブルーズ・チャート」2位の大ヒットでしたナ。
最初はピッツバーグの小さなレコード会社の、
「フィー・ビー」レーベル

からリリースされたのを大手「ドット」レーベルが買い取って全米ヒットとなったんでゲス。

彼等はピッツバーグのグループなんだけど、出身地は色々?
っていうのも、彼等はピッツバーグに駐留する”アメリカ空軍”の隊員で、結成当初の1955年はメンバー全員が黒人だったんだけど、軍隊特有の人事移動等でグループ初の白人メンバー「デヴィッド・レーシー」が加入したり、後にソロになって、
「SHORT ON LOVE」(邦題「恋はスバヤク」)
をヒットさせて日本でも知られた、
「ガス・バッカス」

が加入したりしたグループですナ。

今回のココ迄ズ~ッと黒人のグループばかりだったんだけど、「ザ・デル・ヴァイキングス」ってな”黒人白人混交”のグループによって白人が登場したんだけど、まぁ「ドゥ・ワップ」じゃぁないんだけど1954年の、
「ザ・クリュー・カッツ」

の、
「SH−BOOM」
が、1954年「ポップ・チャート」1位の大ヒットになって、何とも言えない”白人カヴァー”とはいえ無視出来ない状況になって、ソノ流れにブルックリンの、
「ザ・トーケンズ」

が登場したんでゲス。
「I LOVE MY BABY」
「WHILE I DREAM」
「ニール・セダカ」在籍中の「ザ・トーケンズ」なんだけど、全くヒットしませんでしたナ。
ブロンクスのベルモント・アベニューから「ニール・セダカ」よりも先に白人グループが登場したでゲス。
んで、”ソノ”彼等が「ホワイト・ドゥ・ワップ」の幕を切って落としましたナ。
「ディオン & ザ・ベルモンツ」

「I WONDER WHY」
1958年「ポップ・チャート」22位だったんだけど、リード・ヴォーカルの、
「ディオン・ディムーチ」

はニューヨークの音楽ファンのアイドルとなって、翌59年に決定打となった曲がヒットしたんでゲス。
「A TEENAGER IN LOVE」
1956年「フランキー・ライモン」率いる「ザ・ティーンネイジャーズ」から「ディオン & ザ・ベルモンツ」の「ア・ティーンネイジャー・イン・ラヴ」と「ドゥ・ワップ」もティーンエイジャーの音楽となったんでしたナ。
今回は以上でゲス。
んじゃぁ又。



プロフィール

- 自己紹介
- WW2以降1970年代迄の”映画”、”音楽”、”ファッション”等などが大好きな、
”「BEAT」野郎”
で、特に1950年代が大好物でゲス。
岐阜で「MEMPHIS」っていうアメカジ店を2010年1月末日迄やってましたが、現在は家業をついで”製帽業”をしてますヨ。(「CA4LA」、「ポール・スチュアート」、「ザ・スコッチ・ハウス」、「コムサ・デ・モード」等より仕事を頂いているでゲス。)
他にも個人的に「MEMPHIS工房」として”帽子”製作、販売していますヨ。(コチラは出来上がり次第「作品集」のコーナーに随時Upしますのでご覧くださいませ、ませ。 詳細のお問い合わせ承りますので、お気軽にどうぞ。)
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