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資料

あこがれのハワイ

          

 

あこがれのハワイ(ホノルル)に着いた。ジェット機で7時間の距離である。                

入国審査後、レイ・グリーティングを受ける。

 ハワイの流行は雨で始まった。道すがらみられるバナナ、ヤシ、プーゲンピリア等熱帯の植物が南国の情緒をかもし出している。

 Hlハイウェーを、バスは快適に走る。見るものすべてが日本の景色と大違いである。

 ホノルルの中心は、ダウンタウンだ。

 その町から東西にキング通りベレタニア通り、場所によっては4〜5車線もある快適な道路である。

 ホノルルからウラオーフへ行くパリ・ハイウェーの途中の峠にヌアヌ・パリ展望台がある。オアフ島中央を貫くホーラウ山脈周辺で、一年中風が強いところである。

 今日も強い風雨なので、全員早々にバスに戻ってしまった。

 しかし、ウラオーフの町が霧間に見えて美しかった。

 晴れていればモロカイ島まで展望できるそうである。

 ドール・パイナップルキャナリーで昼食し、パンチボールの丘を見学する。

ここはダイヤモンド・ヘッドやココヘッドと同様火山噴火活動によりできた高台で、現在国立太平洋記念墓地である。

り、広大な芝生のエリアに白い墓石が整然と並んでいる。

 降り注ぐ太陽、目にしみるグリーンの芝、「この木何の木気になる木」で知られるモンキー・ボードの木がとても印象的である。

 ガイドの案内によると、特にアメリカ人観光客がパンチボウルで訪れる墓石は、従軍記者アーネスト・ティラー=竹アーニイ”パイルだそうである。

 彼は戦う兵士をレポートし、その記事は広く読まれ人気があった。

 アメリカ人にとって英雄的なジャーナリストであったが、1945沖縄の西のイエ島で命を落とした。

 この墓地には、日系人兵士も限っている。

 車が停車禁止のため下車して見学する事はできなく、通過するのみであった。

 その後事窓から、ホノルルの町を見学する。

 イラニオ宮殿(これもバスの車窓からチラリ)の梅側、ハワイ旧裁判所の正面に金色に輝くカメカメハ王銅像がある。

 ガイドの案内によると、この銅像は複製で、オリジナルはハワイ島のコハラの旧裁判所の前にたっていて、しかも、この銅像のモデルは、カメハメハ王本人ではなく、彼の親友の宮廷仲間で、一番ハンサムな男だったそうである。

  ハワイのシンボルであるダイヤモンドヘッドは、いろいろなところでみることができる。火山の噴火でできたクレーターで、ハワイ訴では「ラエ・アマグロの眉」又はカイマナヒラと言われていたが、19世妃のはじめにイギリス人の水夫たちによってこのニックネームがつけられた。

 彼らはこの山にゴロゴロしている方解石の結晶をダイヤモンドと勘違いしたからだ。

途中での免税店でアロハシャツ、半ズボン、ビーチ・サンダル等を購入する。

 2時過ぎに、本日のからのホテルであるヒルトン・ハワイアン・ピレッジに到着する。

 ここでも南国特有の植物と鴛鴬が、私を迎えてくれる。

4時ごろ部屋に落ち着く夕刻6時30分から「紅花」で全員そろって夕食をする。

ここは和風ステーキハウスである。

2日日は、朝食後7時集合、久保田鉄工の労働組合のグループと共に、ホノルル空港へ、そこから空路でマウイ島のカフルイ空港へ約40分のフライトである。

 マウイ島はオアフ島から南東へ118キロの位置にあり、ハワイ諸島では2番目の大きさで、人口は約7万人である。

 島はひょうたん型をしているがもともとマウイ島は二つの島であった。

火山活動の結果流れ出した溶岩が二つの島を結びつけて今日のマウイ島になったのである。

 マウイ島はひょうたんの形という人もあるが、ガイドの説明によると、マウイ島の形は女性の姿に似ているという説はとてもすばらしい。

 カアナパリからラハイナにかけては額から口にあたり、オロワルが鼻マアラエア漕がのど、ワイレアからマケナにかけてのびる胸の線、空港のあるカフルイは色っぼい首筋、マウイは女性なのだ。

 マウイ島のハイライトというべきなのがハレアカラ・クレーターの見学である。

 ハレアカラとは、ハワイ語で「太陽の家」という意味で、標高3030m、周囲34キロメートルの世界最大のクレーターを持つ休火山である。

アメリカの国立公園の一つであり、管理が行き届いている。

途中サトウキビ畑、パイナップル畑が続く山の中腹は雲が懸かっている。

道がつづらおりになって、バスは左右に揺れながら進んでいく。ガイドは韓国系のなまりのある女怯で、「複雑な国から、のんびりした国へようこそ」。私は大笑いした。

 5合目くらいから、一面にガスがかかって視界が遮られる。

 舶交じりの天候である。車内の人はモエモエ(ハワイ語で眠ること)している。

 頂上付近で急に視界が開けた。いよいよ山瀬である。

 ガレ場で植物は全くない死の世界で、風が強く気温は低くて寒さを感じる。

 下界は曇りなので一面の雲海である。 NASAの宇宙飛行士がここで、訓練をしたそうである。また、あのスタンリー・キューブリックの名作「2001年宇宙の族」の一部がここで撮影されたのだ。

 小休止の後、同じ道を下山する。途中で自転車で下山する「ハレアカラ・ダウンヒル・ツアー」のグループに出会う、これはとてもスリリングなことだと思う。

イアオ渓谷は山があたかも男他のシンボルのように立ち上がっている。

 現地名では、イアオ・ニードルといい激しい風雨でこのように侵食されたものである。

 緑濃い谷間の道路を約5キロメートルほど走ると、駐車場のある終点に到着した。ここがイアオ渓谷畑立公園の入り口である。

 西マウイ山系プウ・ククイの断崖に囲まれたこの公園は、マーク・トウェインをして、「太平洋のヨセミテ」といわした渓谷菜である。

 深いグリーン、生い茂る熱帯植物、そしてハワイとは思えない涼しい風が吹き抜けていった。

  この渓谷を後にして、グランド・ワイカプ・カントリークラブの食堂で昼食をとることにした。

 ここはカフルイ空港から15分のところにある。

ハレアカラを目の前に雄大な景観を楽しみながら、日本のビールで昼食を楽しむことができた。

 砂糖キピの生産全盛期に収穫物避撒に活躍した蒸気機関車を観光用に再現した「砂糖キビ列車」に乗った。

 正式には、ラハイナーカアナパリ・アンド・パシフイツク・レイルロードというそうである。

ガイドが「ハワイの新幹線」と説明してくれた。

 車窓から眺める砂糖キビ畑やゴルフコース、ウエストマウイの海とかなたにはモロカイ島やラナイ島がみえる。

 車内ではガイドがマウイの歴史や名所の解説してくれ、おまけにウクレレ片手に「ここに宰あれ」や「上を向いて歩こう」等を交えて歌のサービスまでしてくれた。

 車内で椰子の実のジュースを飲んだり、合間に汽笛の音が聞こえて、なかなかのんびりした気分であった。

 ラハイナの町はカメハメハ大王の時代、ハワイの都であった所だそうである。

 一時は摘録船の補給基地として賑わい、挿鯨ブームが去ると砂糖キビ生産を中心とした農業の町であった。

 それらの変遷があったにも係わらず今なお当時の面影を残したロマンチックな港町である。

 というのも、1962年にラハイナは国立歴史保護地区の指定を受け、それ以来町ぐるみで歴史的な建物の保存や復元にカを注いできたきたそうである。

 ここでは映画のセットではないかと錯覚するくらい、古びた木造の建物はノスタルジックなムードを漂わせていた。

 そして、歴史を感じさせてくれるそれらの建物には、洒落たレストラン、おみやげ屋、ギャラリー、ダイブショップ、ブティックが軒を並べにぎわいは衰えることはない。

 ここで見た「バニアンの大樹」は、ラハイナの一つ思いでになるだろう。

 

これは、1873年に当時保安官であったウィリアム・スミスにより植えられたものだそうである。

 3日日、オプショナル・ツアーで真珠湾クルー「オアフ コスタル デラックス」に出かけた。私一人の族である。

 船名は「スターオプ ホノルル」でケワロ湾を出発した後、すばらしいワイキキ海岸線、世界的に有名なダイヤモンドヘッド沖から、オワフ島沿岸の景色を楽しむことにした。

 真珠湾の由来は、その昔1739年に真珠が発見されたところによる。

 その後カメハメハ大王は湾近辺の漁業を禁止し、真珠の採取権を握り、真珠は貿易の費重品となった。

 また、1941年、12月7日真珠湾は日米太平洋戦争の幕開けの場となり、私には忘れられない場所でもある。

日本帝国の満畑、中国、インドネシアに対する進駐を懸念した、米国、英国、オランダの経済封鎖は、日本を武力により国家の利益を守ることしかないという悲壮な、土壇場に追いやってしまった。

 東条典機大将が同年10月に首相の座について、この戦争は決鮭的なものになったのである。

 山本五十六提督は、米国のような大国を相手の勝利は奇鶉攻撃によるものしかないと確信し、軍事上の理由から真珠湾を奇鶉の場として選択したのである。

1941年、12月7日(日曜)の未明、日本の外交使節はワシントンで、米国政府要人と交渉中だったが、33隻からなる日本の機動部隊(航空母艦6隻、戦艦2隻、駆逐艦11隻、補給艦8隻)がオアフ島北方200マイルの地点に進航したのだ。353機の日本の艦載機は、真珠湾に集中していた米国太平洋艦隊を撃滅せんと発進中であった。

 同日午前6時、航空母艦から第一次の183機(戦闘機43機、爆撃機49機、急降下爆撃機51磯、魚雷攻撃機40機)が飛び立ち、ついで7時15分、第二次の170磯が飛び立ち真珠湾猛攻をかけたのである。オアフ島上空に接近した飛行隊は、3編成に分かれ、あるものは西から、他の一体はダイヤモンドヘッドをかすめて、東側から真珠湾奇袈をかけたのだ。

 当時停泊中の戦艦アリゾナを含む94隻のうち18隻が沈没又は撃破されたが、そのうち13隻は修理され未曾有の米国艦隊に復帰したとのことである。

 日本軍の格好の目標となり、約9分で撃沈され、悲劇的な最後を遂げた戦艦アリゾナの艦内には、今なお館艮以下1102名の遺体が呪っている。

 その兵霊を慰めるため、1962年にアリゾナ記念館が設立され、マストの演に米国国旗ひるがえり、感傷的理由から戦艦アリゾナは、今なお現役中ということになっている。

 さすがに、アリゾナ記念館の前を観光船が通過するときは、心に痛むものを感じた。

 この美しい滞内で、あの忌まわしいばかげた戦争が行われたことを 船内放送で、花束が投げられることがつげられた、全員起立でこのアリゾナ記念館を通過するまで見送った。

 真珠湾攻撃の結果、米国将兵の死亡は、3067名、日本軍の戦死者は55名であった。

 この奇輿は、米国国民を団結させ、どの地域社会でも竹リメンバー・パール・ハーバー沖が合い言葉として繰り返されたのである。

1945年9月2日には、日本帝国の無条件降伏という形で、太平洋戦争は終結した。

 アラモアナ・ショッピングセンターは、約6万坪の広大な敷地に6件のデパート、スーパーマーケット、ブティック、ギフトショップなどあらゆるアメニティでアミューズ

メントを詰め込んだ繁華街である。

 おみやげはもちろん、VSAのグッズ、世界の一流ブランドなどここにくればすべてそろうと言うことで観光客で賑わっている。

 シーズン毎のセールスや各種のイベントが数多く開僻されていて、アラモナは単なる買い物する場のみならずハワイ族行では欠かすことのできないアトラクションといえる

であろう。

 私もバリーショップで、今まではしいと思っていた靴を購入した。

 店員と値段交渉している間に、高松宮妃殿下喜久子様がお供の方々とこの店入ってこられた。

 ご挨拶はしなかったが、奇しくも、私が真珠湾見学をした日にお会いできたのは何かの因縁があったのだろうか。

 夕刻から、サンセット・クルーズのオプショナル・ツアーに出かけた。やはり私一人の族である。

 船名は、アリ・カイというもので、ケワロ湾を出発しワイキキの沖からダイヤモンド・ヘッド沖までのクルーズである。

 ワイキキの浜辺で寝ころんでいるのもいいが、やはり海から眺めるワイキキの浜辺を見るのがいい、ダイヤモンド・ヘッドを目前に美しい海原、ハワイアンスタイルのパー

ティはこのたびの思い出になった。

 一人族で寂しいと思う方もいると思うが、途中で妙齢のご婦人と親しくしていただき結構楽しかった。

 ハワイはサンセットがよく似合う、あいにく雲間に太陽が沈みいわゆるサンセットは見れなかったが夕刻の海原は格別の美しさであった。

 最後にハワイアン・ダンスのショーがあり、最後に全員で「尻ふりダンス」を楽しんだ。

 

 初めてのハワイの流行なので、ワイキキキ・ビーチ、アラモアナ・ショッピングセンターを眺めただけでも十分に満足のいく族であった。

 しかし、私には、太平洋戦争の始まりであった真珠蒋へ行ってみたいと思いをもって参加した。

 「ハワイヘ行って来たよ、楽しかった」とお土産片手に友達に自慢したくなる気持ちはよくわかる。

 しかし、今回の族は、実はハワイの8つの島々の内、オワフ島とマウイ島の二つ島に行ったにすぎなかったのだ。

 

 まして、すべての島を観光してまわるとすれば、気の遠くなるような地球の歴史にふれることができる。

 こんなに壮大なスペクタクルを眺められる場所は地球にはあまりないのではないか

 もし、訪れることがあるとすれば、8つの島を見学して初めてハワイ流行をしたことになるのではないか。

「もう一度来たい」そう思いながら、ハワイの最後の夜をゆっくりと楽しんだ。

 帰路のフライトは、急に疲れがでて眠ったままであった。

 関西空港に着くと、殺風景な人工的な景色が目前に広がった。

 ああ、ハワイ族行は終わったのだ・‥‥‥‥‥

 

最後に、今回の族紆を企画していただいた、会社に心からお礼を申し上げます。        ・

 

 
 学びは遊びにあり
若松高校を卒業して40数年が経ちました。その間板ガラス製造の企業に40年勤め、結婚し二人の娘の子育てをして、気がついたら60歳になっていた位の感覚です。
その間、私も普通の男性と同じように、会社のため家族のため死に物狂いで働いてきましたが、58歳の半ばに膀胱ガンを患い今でも闘病生活をしています。
幸い早期発見だったので、命には全く別状は無くなりましたが、医者からガンを宣告されたときはさすがにショックは隠しきれませんでした。
京都府の綾部市立病院で手術を受けてから、病床に臥せっていたとき死の恐怖と、胸中には過去の思い出が走馬灯のようにめぐっていました。
一度故郷に帰って、旧友や同窓生に会っていて置きたいと思い、去年は若校の同窓会にも参加しました。
しかし最近は、何故か過去のことを振り返ることが、少なくなってきました。
過去を振り返っても仕方がない、人生はこれすべて遊びだと考えるようになってしまったからです。
生まれてから死ぬまで、楽しく笑い、遊ぶことが大切なんだなと。それなのに文部省を中心として、生涯学習、ITなどと、生まれてから死ぬまで学ばなければならないような風潮になってしまっています。
今の高校の普通科は完全に、大学の予備校そのものです。大学進学するもの以外は普通科になんの意味もありません。
企業に採用されても、高卒普通科の者は概して事務計算能力がない、国語、英語の学力は実用的でないので再教育が必要だし、字が汚い。せめてパソコンのワープロでも操作できれば救いがあるんですが。
昔から”読み書きそろばん”と言われていますが、現在では日本語と英語のよみと日本語と英語の書きとパソコンが出来て、人に負けない社会に役立つ特技があれば文句なし、もっとも今の大卒の大半はこれらの技能を持った者なんていませんが。
しかし定年退職後も死ぬまで学ぶ必要があるなんて、そこには間違いがあるようなきがします。
学ぶのはいいけれども、始終しかめ面で死んでいくのはかなわない。やはり遊び心の中に幸せが生まれるのではないでしょうか。
その点私の場合は、ビールやワインを飲んで美味い料理を食べるのと、社交ダンスをしていれば、それで人生はバラ色で、それ以外に学ばねばならないものはないと思っています。
あくまで自分の趣味や道楽として自分の好きなことをやればいいのだと思います。
お茶を一杯飲むのに茶道みたいな作法のあるようなものはご免こうむりたいのです。
ビールはガバットのみたい。料理はくちゃくちゃと音をならして食べたいとおもいます。
肉は体によくないと言って食べない人がかなりあるようですが、私は免疫性を高めるには肉を食べるに勝るものはないと思っています。
社交ダンスは男女が抱き合って軟弱な奴だと軽蔑する人もきっといるとおもいますが、これがとても過酷なスポーツであるということはあまり知られていないようです。
一曲3分間位だけど、踊ってみると息があがることがあります。パーティなんかそれを3時間もするのですから、ゴルフの1ラウンドに匹敵すると思われます。
文字通りの異性とのふれ合いですから、清潔にせねばなりませんし、衣装も派手目のものを着るようになり、姿勢もよくなってしかも10年は若く見えます。
ルンバという踊りは、情熱的で相手と見詰め合って踊ります、上手く踊れたりしたら、相手の女性にトキメキを感じることができます。
月に一度位、女房やトキメキを感じる女性と、食事してダンスして握手して別れるというような生活はすばらしい生きがいを感じます。
 遊びですから好きになりのめり込んでいくから上手になれると私は信じています。
それにしてもあとわずかな人生、ガンを患っているからそう長くは生きることが出来ないかもしれないが、心のもち方でいつまでも青春でいられる。
たくましい意志と、豊かな想像力、燃える情熱、これらがあれば青春そのものだ。
今私は60歳の青春時代です。
いま、定年を迎えて日々家にいてゴロゴロ寝そべって、濡れ落ち葉といわれている人が、もしいたとしたら、とにかく外へ出かけようじゃありませんか。
旅行、観劇、ゴルフ、なんでもいいんです。
ある人は60歳で登山をはじめた人を知っていますし、55歳でスキューバダイビングをはじめた人も知っています。
しかし、それなりに金はかかるけれども、皆さんはそれなりに金を持っているのですから楽しまなくては・・・・・
寿命の残り時間が少ないと考えるか、まだ20年あると考えるかで、生き方が変わるじゃないかと思います。
 
 
我が心の旅

昭和20年8月9日、私は現在の中国黒竜江省の牡丹江市にいた。
5歳を過ぎの頃であった。私はいつもの通り茶の間に寝転んで唱歌を歌っていたその時、耳を劈くような、大砲の音が聞こえた。母と共に一目散に防空壕に飛び込んだ。
ソ連が参戦したのだ。爆撃は数十分続いた。私は壕の中で怯えたが、そのまま眠りについていた。夜になって無性に腹が減って目が覚めた。母はそばにいなかった。
そのうちざわざわと人の叫ぶ声、ものをたたき壊す音が聞こえてきた。満人による略奪が始まったのだ。
突然母が私の元に来て、「淳一逃げるのよ」と叫んだ。これが一年ほどの逃避生活の始まりだった。
牡丹江駅は、避難民でごった返していた。乗せろ、乗せない言い合いが始まっていた。どうやら軍用列車と民間列車とがあるらしい。
列車には軟座(グリーン車)と堅座(普通車)があり、軟座の方は将校とその家族、堅車は兵士とその家族と言った具合で、満席であった。
どういう伝手であったのであろうか、父親が満州興業銀行に勤めていた所為か、その従業員80数名は乗ることが出来た。もし、この列車に乗っていなかったとしたら、私の運命はどうなっていたか、幸運だったのか。
後に分かったことだが、軍用列車は関東軍の撤退の列車だったのだ。しかしこの列車は哈爾浜までは行けなかった、燃料の石炭が手に入らなくなったのと、満人運転手が金を渡さなければ仕事をしないのだ、天下の関東軍も完全に馬鹿にされているのだ。
それに哈爾浜では、満人暴徒が、ソ連兵が略奪行為をしているとの情報が流れてきたのだ。女性は髪を切り、顔は煤でよごして、男装をし、哈爾浜までの三十数里の道を歩いた。食べるものは乾パンと水であった。老人は歩けなくなるもが出てきたら容赦なく放置された。4才以下の子供に殺害命令が出た。
その子の母たちは、やむなく中国人に預けるものが多かった。私は5才だと言って難を逃れた。
7日後に哈爾浜についた。だれも疲労と空腹で無表情だった。どこからか中国兵とその通訳がやってきて。まず手荷物は全部没収された。「日本国は無条件降伏をした。いまから諸君を収容する、兵士は全員武器を捨てなさい。抵抗するものは、この場で銃殺する」。
収容されたのは桃山小学校であった。80数名いた満州興業銀行のメンバーも50名程になっていた。でも有り難かった、せめて雨つゆがしのげて、煮炊きしたものが食べられた。

それから、60年私のこの忌まわしい体験を、心の中にしまっていた。私の女房にも、二人の娘にも話さなかった。作年福岡県前原市の知人が、哈爾浜市、牡丹江市に行く話があり、私もメンバーに入れてもらった。
哈爾浜から牡丹江往復を、列車で出かけた。車窓の景色は、一面のトウモロコシ畑と沿線に植えられたポプラの木々が延々と続いているだけで、2・3分で飽きてしまった。あのときに比べるとなんと平和なことか。
牡丹江市駅は当時と打って変わって立派な建物に建て替えられていた。あのときの混乱の面影はない。旧牡丹江市女子高等学校は一部が残っていて、昔の面影はない、今で言う営林署みたいになっていて、昔の面影は無かった。近く高速道路が出来るので壊されるそうだ。
幼少の頃遊んだ旧人民公園は残っているが入場が有料になっていた。旧牡丹江神社はいまもあり、忠霊等が無くなり日抗戦死者の塔が立っていた。
春山公園は昔のままと思われた。明倫小学校は無くなっていた。丁度暖房用の炉の煙突が倒されていた。しかし、それを囲む塀は元のままだった。
牡丹江市の旧銀座通りはあの整然として美しかった町並みは、屋台街のようになっていた。
牡丹江劇場はいまも営業していて、開拓団の宿泊した宿はそのまま残っていた。
そして、あの8月9日の逃避行が始まった社宅はビル街になっていた。

哈爾浜市の町並みは大きな変わりようであったが、 聖ソフィア教堂は昔のままだった。
桃山小学校は兆麟小学校として今も実存し、哈爾浜では優良校になっている。中に入れてもらったが、そこで当時避難民として生活した当時そのままの姿で残っていた。懐かしさが込みあげてきた。
松花江は当時とは変わらないように思えた。観光船による遊覧を行った。ここにかかる1903年に建設された鉄橋は、いまも残っていた。多くの難民を乗せた貨車がここを通っていったのだ。松花江に沿ってスターリン公園があるスターリンは聞いただけでもぞっとする人物だか、直接関係は無いそうだ。

哈爾浜〜長春の列車の車窓は、相変わらず、線路沿いのポプラとトウモロコシ畑の連続であったので2・3分で飽きが来た、寝台車だった所為か食堂車があった。ビールの銘柄は「雪花」で、冷えていない。
当時この路線を貨物列車で走ったのだ、いわゆる昔の石炭車で、人がぎゅうぎゅう詰めで走ったものだ。
長春は旧新京と言った、この市の富士町で弟富士男が生まれた。今の長春駅の近くである、そこを一度見ておきたかった。観光バス車窓から眺めただけであったが。
長春はラストエンペラー溥儀で知られる。日本は旧満州国の首都として建設された。当時一つの農村に過ぎなかった集落を、首都としての機能を備えた大都会にしたのだった。
当時ここに半年ばかり旧満州興業銀行の社宅跡に住んだことがある。ここで父の戦死の公報が入った。新京の近くの公主齢市での戦病死であった。継母は「父ちゃん死んだの」とぽつりと言った。その付近でひとり、父を思い合掌した、込みあげてくるものがあった。
当時私は、ここから無蓋車に乗せられ、コロ島まで走ったのだ。ようやく引き上げが決まり、引き揚げ者が歓喜の時であったと思われる。なかには、新京で貯めた財を積むものもいた。その荷物の間に、私の体がロープで固定されていた。9月とは言えとても寒かった。
長春〜瀋陽北の列車の車窓は、相変わらずの景色で何の変哲のないものである。瀋陽は旧奉天と言った。私はここで生まれた。実母との別れの地でもある。母は28才の若さで結核で死亡した。死の床で私の顔をみて、にっこり笑った母の顔が浮かんだ。
奉天駅は今も存在していた、この付近で私は生まれたのだ。母はここの大和ホテルで結婚式を挙げたのだ。いまも実在している。
瀋陽〜大連での車窓は変化が多かった。大連は、自然豊かな美しい町で、日本の風土に似ている。私の興味は旅順の水師営と203地である。これは引き上げには関係ないが、小学校の6年のときの担任であった、山本五郎先生の日露戦争の話がとても興味を持ったことがあり一度は行きたいところであった。

60年もの月日を迎え訪れた旧満州はいずれもビルに囲まれた大都市になっていて、幼少のころの記憶が薄れていく、この土地で実父母を失い。実父の後添えに迎えた継母シゲがこの戦乱のなかを本国へ連れ帰ってくれたことは今でも感謝している。その母も今はいない。引き上げ時ようやく本国が博多沖から見えたときの感動は幼いながらも覚えている。また、本国帰国を直前に、病死したひとの思い。現地で得た金が、本国では単なる紙切れであって、大量に投棄する人の無念さは、いかほどであったか。
あれほど逢いたかった、祖母もすでに他界していた。だが幸いだったのは実父の3人の伯母(姉妹)がいたことであった。その一番上の伯母に養子として引き取られた。18才まで国家は僅かな補償をしてくれた。ただし、弟には、終戦前に帰国していたので補償は無かった。これらの思いを持って「我が心の旅」は終わったがまだ心残りはある。
8月9日のソ連参戦を早々と知り、夕餉の食事もしないで一目散に逃げ去り、そして4才以下の子供に足手まといと言う理由で「殺せ!」と命令した関東軍の将校がいま目前に現れたら、地面に平伏させ、反省させたうえ、顔面を拳でぶん殴ってやりたい気分である。それをするには60年もの多くの月日が流れ、その者の記憶も薄れてしまっている。ここで述べた旧満州の旅はわたしの半生のけじめでもある。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

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Emperor

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社交ダンス DSひまわりの会員です
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篠山シルバー人材センター 篠山口東口でレンタサイクルのアルバイト
年金生活です
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