人物
#東善作 #高橋ふみ #鶴彬
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桜井三郎左衛門は、天正12年(1584)に越中国(現在の富山県)の大名佐々成政が、現在の宝達志水町にある末森城を攻めた「末森の戦」の時、救援に向かっていた加賀藩祖前田利家を現在の宇ノ気周辺で迎え、敵軍が川尻村(宝達志水町)で利家がやってくるのを待ち構えていることを伝えました。そして、三郎左衛門は海岸沿いから密かに利家の軍勢を誘導し、今浜(宝達志水町)付近まで案内をしました。これにより利家は末森城を危機的状況から救うことができ、勝利のきっかけを作ったということで利家は三郎左衛門に褒賞を与えることにしました。三郎左衛門は褒賞として、「村の地子銀(宅地税)を末代まで免除してほしい」と願い出、利家はその願いを快く承諾しました。そして、それ以来、明治8年(1875)に租税制度が改正されるまで300年余りの間、村民はこの恩恵を受けることとなったといわれています。
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七塚地区には唐仁屋三郎兵衛という海運業で成功し、財を成していた豪商がいました。京都、大阪への飛脚をしていた三郎兵衛は、近江商人との商いで儲けて船を建造、船問屋となりました。これにより巨万の富を築いた三郎兵衛は、千石船の白帆に伊・呂・波・四十八文字を染め抜き、中国、インドまで交易したといいます。ある年の夏祭りの日、三郎兵衛は病気の妻に48隻の船が並ぶ姿が見たいと頼まれ、妻思いの三郎兵衛は、全国の持船を白尾に集めたのです。そして、現在白尾灯台が建つ日和見山から船が並ぶ風景を見たのですが、その夜、大嵐で船は全て沈没してしまい破産の憂き目に遭ったのです。三郎兵衛は、その後流浪し、それでも愛用の銀の杖と金の椀は失わなかったと伝えられます。この悲劇から日和見山を「鬼が山」と呼ぶようになったといわれています。
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白尾灯台が建つ鬼が山公園 |
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西田幾多郎は、明治3年(1870)現在のかほく市森に生まれました。西田家は江戸時代に十村役という加賀藩の役職を代々務めた家柄でした。しかし、明治に入ってから父親が事業に失敗したり、自身が病気にかかるなど幾多の困難に見舞われます。 ですが、第四高等学校や
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宇ノ気小学校の西田幾多郎像 |
明治26年(1893)羽咋郡南大海村中沼(現在のかほく市中沼)に生まれます。少年時代は羽咋で過ごし、小学校を卒業後、朝鮮半島へ出稼ぎに行きます。そして、京都中学校四年に編入学しますが、1年で休学。今度は、岡山県の私立関西中学校へ再入学します。卒業した善作は大学進学の学資を得るために、金沢の新聞社の入社試験に応募し、見事に合格します。そして、記者として働いている中、金沢の野村練兵場で行われた曲芸飛行を見て、善作は自分も飛んでみたいという衝動に駆られます。早速、半年足らずで新聞社を退社し、アメリカへ航空について学ぶため旅立ちます。渡米した東は働きながら民間のパイロット養成学校に通いますが、第一次世界大戦が起きるとアメリカ陸軍航空学校に入隊し飛行技術を学びます。その後、遊覧飛行業と中華料理店を経営しながら資金を集め、昭和5年(1930)6月、三大陸横断を成し遂げるため、赤い複葉機「東京号」に乗ってロス空港を出発します。アメリカ大陸を横断し、欧州各国、シべリヤ(ロシア)を経て日本に同年8月31日に到着、世界的壮挙と賞賛されたのです。その後、戦後の原子力時代を予見し、島根県の人形峠ウラン鉱を発見しました。その後、郷土の宝達金山の発掘を夢見ていましたが、昭和42年(1967)10月に病気のため、75歳の生涯を閉じたのです。現在、東善作を記念して、紙飛行機大会が毎年開かれています。
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東善作生誕の地に立つ碑 |
| 高橋ふみは明治34年(1901)に生まれ、哲学者で知られる西田幾多郎の姪にあたります。ふみは「女に学問はいらぬ」という社会風潮の中で、旧制東北帝大に入学、倫理・哲学を専攻して昭和4年(1929))に卒業しました。その後、ドイツに留学し、帰国後は東京女子大学講師として教壇に立ちましたが、肺病にかかり、帰郷して療養の傍ら、地元の希望者に対して講義を行っていました。しかし、昭和20年(1945)44歳でおしくも他界されました。高橋ふみは石川県で第一号の女子帝大生であり、女性のために学問の道を開こうとした偉大な教育者でした。 |
高橋ふみ生誕地 |
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明治42年(1909)1月1日、竹細工職人喜多松太郎と、その妻スズ(寿ず)のもとに次男として生まれますが、生後すぐ、機屋(はたや=織物業)を営む叔父・喜多弁太郎(喜多郎、徳次郎とも)の養子となります。高松小学校を首席で卒業し、少年時代から新聞の文芸欄に川柳を投稿して、世相に対する風刺と批判の句は読者を驚かせていました。成人して七連隊へ入隊し、除隊後は川柳界の大御所、井上剣花坊の機関誌「川柳人」に加わり、自然と風刺の詩人、文芸評論家として全国にその名を馳せました。剣花坊亡き後は事実上その後継者として指導に当たりましたが、当局(政府)の怒りに触れて入獄し、天才詩人とまでいわれながら惜しくも29歳の若さで亡くなり、遺骨は、ふる里高松へ帰ることなく、兄孝雄さんの手により、岩手県盛岡市の光照寺で手厚く葬られました。 昭和47年(1972)9月、鶴彬の友人・同級生や有志らによって第三保育所横の児童公園内に句碑が建てられ、現在は高松歴史公園内に移動されました。 句碑には、「枯れ芝よ団結をして春を待つ 鶴彬」と刻まれています。 平成22年(2010)には、鶴彬の生涯を描いたドキュメンタリー映画「鶴彬-こころの軌跡-」が製作されました。 |
![]() 鶴彬 |
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