2010年9月 アーカイブ
2010年9月29日 12時25分17秒 (Wed)
とうとう1度も・・・。
本当に今年の夏は暑かったですナ。
なので、コノ夏は結果的に”化繊”の服は1度も着用しなかったでゲス。
所謂”レーヨン素材のハワイアン・シャツ”等ネ。
俺の中じゃぁ”夏シャツ”っていえば・・・”ハワイアン・シャツ”なんでゲス。
んで、今日はコノ”1度も着用しなかった”、
”ハワイアン・シャツ”
の話ですナ。
まぁ、”アロハ・シャツ”の事でゲス。
ってか、普通じゃぁ”アロハ・シャツ”の方が通用するんでしょうネ。
さてさて、本題でゲス。
仕事柄っていうか、元来の”ヴィンテージ・ウェア好き”だからか、俺の周りにゃぁ”アロハ・シャツ”好きが結構いますネ。
ソノ大半が”デザイン(絵柄)”重視だったり、”年代”重視だったりなんだけど、中にゃぁ”ブランド”重視の人もいたりするんでゲス。
んで、そんな”ブランド”重視の連中が贔屓にしているのが、
「KAMEHAMEHA」
「DUKE KAHANAMOKU」
だったりが断然に多いんですナ。
前者はハワイのブランドで、後者はニューヨークのブランドなんだけど、コノ世界じゃぁどちらもかなりのビッグ・ネームなのでファンが多いのも頷けるんでゲス。
んが、んが、とはいえ俺はあんまり興味が無くって大好きなブランドはというと、
「SHAHEEN’S」

なんですヨ。
さてさて、コノ「シャヒーンズ」っていうブランドについてなんだけど、ソノ前に「シャヒーンズ」って知っている人ってどの位いるんだろう?(殆ど知らないかも。)
正直なところ、俺もデザインが好きなだけで、全く背景等は知らないブランドでゲス。
なので、モノの本で色々と調べてみたところ、
ハワイの”アロハ・シャツ”メーカーは殆どが”東洋系”だったのに対して、”非東洋系”で、しかもWW2後設立された”アロハ・シャツ”メーカーの中で”最も成功した”のが「シャヒーンズ」なんだそうですナ。(全く知らなかった。)


創設者の「アルフレッド・シャヒーン」は衣料品ビジネスに携わる一家に生まれて、1938年に16歳で家族と共にハワイに移住して、”婚礼用ガウン”等をカスタム・メイドしていた両親をWW2後直ぐから手伝っていたんでゲス。
1948年の株式会社化を機に卸売りも始めて、生地プリントの設備を立ち上げたんだけど試行錯誤の連続で、サーフィン・サンド染工所を造ってプリントの本生産を始めたのは1952年になってからだったそうですナ。

んでも、自前のプリントによる独創的な”柄”と、雑誌「ヴォーグ」等に広告を出すハイファッション的な売り出しによって、人気に火がつき急成長を遂げるんでゲス。
1948年に6人だった従業員は、1956年にゃぁ302人になっていたんですナ。
1955年に「アルフレッド・シャヒーン」社に社名変更して”社長”に就任して、1956年にゃぁ工場併設の新社屋を建設したんでゲス。
1階がプリント工場、2階が縫製工場で、”ソコ”にゃぁ長さ60ヤードの捺染台が16台あって、1日4000ヤードもプリントしていたんですナ。

んで、現在ロサンゼルスに住んでいる「アルフレッド」に、彼が手掛けた”アロハ・シャツ”の事を尋ねたところ、
「40年間で5000柄はデザインした。
”デザイナー”にテーマを与えて描かせていたが、自分で手直しする事もあった。
最初の”デザイナー”は「トニー・ウォーカー」で、あと「ロバート・サトウ」。
彼は1950年代頃から1980年代頃迄やっていた。
彼の事を気に入ったんで、ソレ以降は日系人ばかり使う様になった。」
「最初の頃、つまり1950年、51年頃はゴチャゴチャ詰まった柄もやったんだけど、顧客だったアメリカ本土の高級店が、そういう柄はいらないと言ったんで止めたんだ。
ウチの製品は観光客向けじゃぁないからネ。
”和柄”は殆どやらなかった。
東洋調は多いがネ。」
「柄は全て”男女両方”の製品になっている筈だヨ。
1つの柄は10通りの配色を実際の生地で試して、ソノ内の3配色を製品化した。
ソレ以上はやらなかった。
男物では”茶”、”黒”、”グレー”、”錆色”を使う事が多かったネ。
男物のパンツの色に合う事、つまり”カラー・コンビネーション”が大切なんだ。
1柄に使うのは3~4色。
ソレ位が1番キレイに見えるんだヨ。」
「ボタンは、シャツでは”重要な要素”だと思う。
だからシルクのシャツには”包みボタン”、東洋調のシャツには”漢字柄ボタン”っていう様に”素材”や”柄”によって使い分けていたんだ。
”竹”や”ココナッツ”のボタンが多かったが”ラウハラ柄メタル・ボタン”もよく使ったナ。」

との事でゲス。
んで、映画の
「BLUE HAWAII」1961年(邦題「ブルー・ハワイ」)
で「エルビス」が着用している”アレ”も「シャヒーンズ」なんですヨ。

最後に俺が持っている「シャヒーンズ」の”アロハ・シャツ”でゲス。




ってな訳で、今日はココ迄ですナ。
んじゃぁ、又。
なので、コノ夏は結果的に”化繊”の服は1度も着用しなかったでゲス。
所謂”レーヨン素材のハワイアン・シャツ”等ネ。
俺の中じゃぁ”夏シャツ”っていえば・・・”ハワイアン・シャツ”なんでゲス。
んで、今日はコノ”1度も着用しなかった”、
”ハワイアン・シャツ”
の話ですナ。
まぁ、”アロハ・シャツ”の事でゲス。
ってか、普通じゃぁ”アロハ・シャツ”の方が通用するんでしょうネ。
さてさて、本題でゲス。
仕事柄っていうか、元来の”ヴィンテージ・ウェア好き”だからか、俺の周りにゃぁ”アロハ・シャツ”好きが結構いますネ。
ソノ大半が”デザイン(絵柄)”重視だったり、”年代”重視だったりなんだけど、中にゃぁ”ブランド”重視の人もいたりするんでゲス。
んで、そんな”ブランド”重視の連中が贔屓にしているのが、
「KAMEHAMEHA」
「DUKE KAHANAMOKU」
だったりが断然に多いんですナ。
前者はハワイのブランドで、後者はニューヨークのブランドなんだけど、コノ世界じゃぁどちらもかなりのビッグ・ネームなのでファンが多いのも頷けるんでゲス。
んが、んが、とはいえ俺はあんまり興味が無くって大好きなブランドはというと、
「SHAHEEN’S」

なんですヨ。
さてさて、コノ「シャヒーンズ」っていうブランドについてなんだけど、ソノ前に「シャヒーンズ」って知っている人ってどの位いるんだろう?(殆ど知らないかも。)
正直なところ、俺もデザインが好きなだけで、全く背景等は知らないブランドでゲス。
なので、モノの本で色々と調べてみたところ、
ハワイの”アロハ・シャツ”メーカーは殆どが”東洋系”だったのに対して、”非東洋系”で、しかもWW2後設立された”アロハ・シャツ”メーカーの中で”最も成功した”のが「シャヒーンズ」なんだそうですナ。(全く知らなかった。)


創設者の「アルフレッド・シャヒーン」は衣料品ビジネスに携わる一家に生まれて、1938年に16歳で家族と共にハワイに移住して、”婚礼用ガウン”等をカスタム・メイドしていた両親をWW2後直ぐから手伝っていたんでゲス。
1948年の株式会社化を機に卸売りも始めて、生地プリントの設備を立ち上げたんだけど試行錯誤の連続で、サーフィン・サンド染工所を造ってプリントの本生産を始めたのは1952年になってからだったそうですナ。

んでも、自前のプリントによる独創的な”柄”と、雑誌「ヴォーグ」等に広告を出すハイファッション的な売り出しによって、人気に火がつき急成長を遂げるんでゲス。
1948年に6人だった従業員は、1956年にゃぁ302人になっていたんですナ。
1955年に「アルフレッド・シャヒーン」社に社名変更して”社長”に就任して、1956年にゃぁ工場併設の新社屋を建設したんでゲス。
1階がプリント工場、2階が縫製工場で、”ソコ”にゃぁ長さ60ヤードの捺染台が16台あって、1日4000ヤードもプリントしていたんですナ。

んで、現在ロサンゼルスに住んでいる「アルフレッド」に、彼が手掛けた”アロハ・シャツ”の事を尋ねたところ、
「40年間で5000柄はデザインした。
”デザイナー”にテーマを与えて描かせていたが、自分で手直しする事もあった。
最初の”デザイナー”は「トニー・ウォーカー」で、あと「ロバート・サトウ」。
彼は1950年代頃から1980年代頃迄やっていた。
彼の事を気に入ったんで、ソレ以降は日系人ばかり使う様になった。」
「最初の頃、つまり1950年、51年頃はゴチャゴチャ詰まった柄もやったんだけど、顧客だったアメリカ本土の高級店が、そういう柄はいらないと言ったんで止めたんだ。
ウチの製品は観光客向けじゃぁないからネ。
”和柄”は殆どやらなかった。
東洋調は多いがネ。」
「柄は全て”男女両方”の製品になっている筈だヨ。
1つの柄は10通りの配色を実際の生地で試して、ソノ内の3配色を製品化した。
ソレ以上はやらなかった。
男物では”茶”、”黒”、”グレー”、”錆色”を使う事が多かったネ。
男物のパンツの色に合う事、つまり”カラー・コンビネーション”が大切なんだ。
1柄に使うのは3~4色。
ソレ位が1番キレイに見えるんだヨ。」
「ボタンは、シャツでは”重要な要素”だと思う。
だからシルクのシャツには”包みボタン”、東洋調のシャツには”漢字柄ボタン”っていう様に”素材”や”柄”によって使い分けていたんだ。
”竹”や”ココナッツ”のボタンが多かったが”ラウハラ柄メタル・ボタン”もよく使ったナ。」

との事でゲス。
んで、映画の
「BLUE HAWAII」1961年(邦題「ブルー・ハワイ」)
で「エルビス」が着用している”アレ”も「シャヒーンズ」なんですヨ。

最後に俺が持っている「シャヒーンズ」の”アロハ・シャツ”でゲス。




ってな訳で、今日はココ迄ですナ。
んじゃぁ、又。
2010年9月11日 10時19分34秒 (Sat)
”いちばん長い日”
1944年6月5日から7日迄の3日間、WW2において連合軍側を勝利に導いたノルマンディでの攻防戦を描いた「戦争スペクタクル映画」の、
「THE LONGEST DAY」1962年(邦題「史上最大の作戦」)
のUpでゲス。
監督は、「ケン・アナキン」、「アンドリュー・マートン」、「エルモ・ウィリアムズ」、「ベルンハルト・ヴィッキ」
出演は、「ジョン・ウェイン」、「ロバート・ミッチャム」、「ヘンリー・フォンダ」、「ロバート・ライアン」、「ロッド・スタイガー」、「ロバート・ワグナー」、「リチャード・ベイマー」、「メル・フェラー」、「ジェフリー・ハンター」、「ポール・アンカ」、「サル・ミネオ」、「ロディ・マクドウォール」、「スチュアート・ホイットマン」、「スティーヴ・フォレスト」、「リチャード・バートン」、「ケネス・モア」、「ピーター・ローフォード」、「リチャード・トッド」、「ショーン・コネリー」、「クルト・ユルゲンス」、「ゲルト・フレーベ」等など。



・・・戦況がこう着状態にあった1944年6月4日未明に、南部イングランドで300万近い連合軍を指揮する「アイゼンハワー」最高司令官はコノ大戦の勝敗を賭けてノルマンディ上陸作戦の日”D・DAY”を決定しつつあったんでゲス。
気象条件に基づき、ソノ日は6月6日と決まって「ベリーヌ」の「秋の歌」を使った暗号放送が流されたんでしたナ。
午前0時15分、アメリカ軍空挺部隊が降下して、0時30分、5000艘の大船団が海上から攻撃を開始して・・・。


当時のアメリカ、イギリス、フランス、ドイツのビッグ・スター70余人が勢揃いの豪華作品でゲス。
「上陸作戦の最初の24時間は決定的なモノになるだろう。
コノ日こそは連合軍にとっても我々にとっても、”いちばん長い日”となるだろう。」
って、ドイツ軍司令官の「ロンメル」元帥に言わせた”D・DAY”は、皆さんご承知の通り連合軍の”圧勝的勝利”に終って、ナチス・ドイツが崩壊する運命になったんですナ。



ってな訳で、今日はココ迄でゲス。
では、では。
「THE LONGEST DAY」1962年(邦題「史上最大の作戦」)
のUpでゲス。
監督は、「ケン・アナキン」、「アンドリュー・マートン」、「エルモ・ウィリアムズ」、「ベルンハルト・ヴィッキ」
出演は、「ジョン・ウェイン」、「ロバート・ミッチャム」、「ヘンリー・フォンダ」、「ロバート・ライアン」、「ロッド・スタイガー」、「ロバート・ワグナー」、「リチャード・ベイマー」、「メル・フェラー」、「ジェフリー・ハンター」、「ポール・アンカ」、「サル・ミネオ」、「ロディ・マクドウォール」、「スチュアート・ホイットマン」、「スティーヴ・フォレスト」、「リチャード・バートン」、「ケネス・モア」、「ピーター・ローフォード」、「リチャード・トッド」、「ショーン・コネリー」、「クルト・ユルゲンス」、「ゲルト・フレーベ」等など。



・・・戦況がこう着状態にあった1944年6月4日未明に、南部イングランドで300万近い連合軍を指揮する「アイゼンハワー」最高司令官はコノ大戦の勝敗を賭けてノルマンディ上陸作戦の日”D・DAY”を決定しつつあったんでゲス。
気象条件に基づき、ソノ日は6月6日と決まって「ベリーヌ」の「秋の歌」を使った暗号放送が流されたんでしたナ。
午前0時15分、アメリカ軍空挺部隊が降下して、0時30分、5000艘の大船団が海上から攻撃を開始して・・・。


当時のアメリカ、イギリス、フランス、ドイツのビッグ・スター70余人が勢揃いの豪華作品でゲス。
「上陸作戦の最初の24時間は決定的なモノになるだろう。
コノ日こそは連合軍にとっても我々にとっても、”いちばん長い日”となるだろう。」
って、ドイツ軍司令官の「ロンメル」元帥に言わせた”D・DAY”は、皆さんご承知の通り連合軍の”圧勝的勝利”に終って、ナチス・ドイツが崩壊する運命になったんですナ。



ってな訳で、今日はココ迄でゲス。
では、では。
2010年9月4日 14時15分00秒 (Sat)
1960年代の日本に”スクーター”の風に乗って”青春”はやって来た!

・・・男は帽子を被り、女はスカーフを頭にキリッと巻いて、小粋なファッションに身を包んだ2人の若い”アベック”(”カップル”じゃぁ無いところがイイ。)は、”スクーター”で高速道路の料金所に差し掛かっても尚、誰からもお咎めも受けず”ノーヘル”、”無免許”で楽しそうに走り去って行くんでゲス。・・・
ソノ羨ましい”笑顔”がサ。
実は”笑顔”の裏にゃぁ、”理由”があるんでゲス。
”商業車”としてWW2後に始まった”スクーター”も、若者達の”足”として、”ランデブー”に”バカンス”にと欠かせない乗り物となったんですナ。
「ベスパ」より「ランブレッタ」よりカッチョ良かった当時の”国産「スクーター」”は、何と、 ”無免許届け出制” だったそうでゲス。
ソノ上、”ヘルメット着用義務”ってな、野暮な法律も勿論無かったんですナ。
「ハーレー」みたくな大型車じゃぁあるまいし、”原チャリ”なんですヨ。
んでも、現在の”スクーター”たぁ、ちと違うんでゲス。
よ~く見ておくれ。

コノ大迫力の”便器の金隠し”(今では死語ですナ。)の様な流線型デザインこそ、一世を風靡した1960年代の”スクーター”なんですナ。
今や”クルマ”を持っていないと話にならないコノご時世でしょ。
んでも、今と違って当時は”クルマ”なんて、そう簡単にゃぁ手に入らない時代、アメリカ軍による統制の元で、WW2後直ぐには国内メーカーは4輪車製造を許可してもらえなかったんでゲス。
物資の不足も深刻な折りに登場する事になったのが”3輪トラック”や機動力がある”スクーター”だったんですナ。
当時の”スクーター”っていうと、「富士重工」社の「ラビット」と「三菱」社の「シルバーピジョン」が”2大ブランド”として君臨していたんでゲス。


んで、”ソノ”2大メーカーの人気にあやかって町工場の様な会社からも、続々と様々なスタイルの”スクーター”が登場していったんでしたナ。
とは言っても、今も偶に見かける現役の1960年代”スクーター”は、殆ど(イヤ、俺は全部)が「富士重工」社の「ラビット」なので、当時を代表する”スクーター”は「ラビット」って思いがちなんだけど、そんな「ラビット」にも、元を辿ると意外な歴史が隠されているんでゲス。
元々、WW2中活躍していた”隼”をはじめとする軍用戦闘機の名門の「中島飛行機」社が「富士重工」社の前身で、アメリカ軍の管轄下に平和産業への移行が進められて一時は弁当箱や家庭金物雑貨等を造っていたんだけど、敗戦後山の様に残っていたタイヤに目を付けて、”ソレ”にオマルの様な鉄の固まりを合体させて”スクーター”第1号が誕生したんだそうですナ。
まぁ、”アイデア商品”っていうのでゲス。
んで、1960年代に入って一部プラスチックも使い始めて、独特な流線型のスタイリングが確立されていったんですナ。
そんな中でも”傑作”って言われているのが、 「ラビットS-301」 で、”スクーター”で初の2トーンのカラーリングもさる事ながら、両サイドに可愛いラビットマークのアルミ製オーナメントに、現在のお買い物バイクからは想像もつかない程”機能的”で、しかもメッキパーツ使いまくりの豪華なデザインだったんでゲス。
”商用”に限らず、女性のユーザーもターゲットにしていた事も当時のコマーシャルから伺えますナ。
3段ギア付、2人乗り、125cc、7,5馬力、最高速度時速km、13万円
クルマ自体のスマート化に加えて、スーツ姿でも軽装のままでも、足を揃えて乗れる”スクーター”は、いつの間にか恋人同士のデートに、家族で気軽にピクニックにと、ソノ用途も徐々に商用からレジャーへと変っていったんでゲス。
「東京オリンピック」の開催も決定して、生活にやっと余裕が出来始めた、そんな”世相を反映した乗り物”で、未だ交通渋滞も無く、緑の多かった街並みを、日本の若者の”夢”と”希望”を乗せて走っていたんでしたナ。

ってな訳で、今日はココ迄でゲス。
そうそう、「ボ」様が乗っている”スクーター”って何ていうところの?(勿論、アメリカのでしょ。)

全く詳しく無いので誰か教えて欲しいでゲス。
んじゃぁ、又。
プロフィール

- 自己紹介
- WW2以降1970年代迄の”映画”、”音楽”、”ファッション”等などが大好きな、
”「BEAT」野郎”
で、特に1950年代が大好物でゲス。
岐阜で「MEMPHIS」っていうアメカジ店を2010年1月末日迄やってましたが、現在は家業をついで”製帽業”をしてますヨ。(「CA4LA」、「ポール・スチュアート」、「ザ・スコッチ・ハウス」、「コムサ・デ・モード」等より仕事を頂いているでゲス。)
他にも個人的に「MEMPHIS工房」として”帽子”製作、販売していますヨ。(コチラは出来上がり次第「作品集」のコーナーに随時Upしますのでご覧くださいませ、ませ。 詳細のお問い合わせ承りますので、お気軽にどうぞ。)
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